前回まで4回にわたり、士師から王の時代へ移り変わるイスラエルの歴史をテーマに書かせていただいた。

 

このブログでは聖書から多くを引用させていただいているが、今回はその理由について、書かせていただきたいと思う。

 

天心聖教の神様は、かつてイエスを遣わされた神様

 

太平洋戦争の末期に、初代様が埼玉県加須市大越の生家に疎開されていたとき、

「我はかつてイエスを遣わした神である」

との御神示が初代様に降された。

 

したがって、天心聖教の神様は、かつてイエスを遣わされ、さらにその前の時代には、モーセを遣わされた神様でいらっしゃる。

それが、聖書から多くを引用させていただいている理由の一つだが、それだけではない。

 

もしも、

「聖書に書かれてあることは昔の事で、神様の御心は昔と今では全く違うのだ」

ということなら、聖書を引用することに意味はないし、かえって混乱を招くだけである。

 

このブログで聖書から多くのことを引用させていただいている一番の理由は、

前述の御神示に続いて、

キリスト教を父とし、わが教えを母として世界人類を救え

との御神示が初代様に降されているからである。

 

「キリスト教を父とし」の意味


この、「キリスト教を父とし」の意味について、第二世教主 島田晴行先生は次の通り説かれている。
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お話は古くなりますが、太平洋戦争のさなか、我々一家は埼玉県大越村に疎開しておりましたが、その頃神様は教祖様(当時は実業人)に次の様な御啓示をなさいました。

「キリスト教を父とし、わが教えを母として世界人類を救え

私がこの神様のお告げを教祖様から聞いた当初は、別段何も考えず、ただただキリスト教も学ばなければいけないのだな、と思う程度でした。
(中略)

ところが、昭和三十九年十二月に入って間もなくのある日、(中略)私の全身に響き渡ったことは、“父は教えにして母は愛なり” ということでした。

(中略)
父とは教えですから、この場合、厳粛なる神の教え、という意味です。
厳粛なる神の教えを、キリスト教について学べという意味について考えてみますと、キリスト教を学ぶには聖書によるほかはありません。
聖書には旧約と新約があり、旧約には天地創造の由来から始まってモーセに対しての神様の御降臨が明記されており、新約にはイエス誕生の由来から、神様とイエスの霊的関係と、イエスを通しての神様の偉大な御威力の現われが記述されております。

この様な聖書の中から何が学べるか、と申しますと、真の宗教と真の宗教のあり方です。
では何故それを学ばねばならないかと申しますと、本教の信仰者は長くて十五年間位の信仰です。その間の体験の信仰にプラスして、過去に於ける神様と人間との交わりの歴史をふりかえり、そこから神様に対する人間の本当のあり方を学べという事なのであります。
何故そうしなくてはならないかと申しますと、信仰とはまず神様に対する人間のあり方から出発するものだからです。従って本当の信仰者となり得るには、天地創造の由来から今日現在までの、一貫した神と人との関係を学ばずしては、到底なり得るものではないのです。

か様な意味で本教信仰者が聖書を学ぶという事はその信仰を真実にみのらせる為に、大変大切な事であります。
(導きの書 「真の信仰を持つ」 より)
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「キリスト教を父とし」とは、過去における、神様と人間との交わりの歴史の中から、厳粛なる神の教えを学び、神様に対する人間の本当のあり方を学べ、という意味であり、

その中から一貫した神と人との関係を学ばずしては、本当の信仰者とはなり得ない。

と、島田晴行先生は説かれている。

このお諭しは、昭和40年頃に執筆されたもので、開教して15年くらいの頃である。

現在はすでに開教70年を経過しているが、それでも聖書に記された神様と人間との関わりの歴史に比べれば、遥かに短い。

 

もちろん昔と今では時代は違う。

聖書の時代の祭事やしきたりが、今も続いているわけではない。
しかし、島田晴行先生が聖書から学べとおっしゃっていることは、そういうことではなく、
一貫した神と人との関係と、神の厳格さ」である。
それを学ばずしては、本当の信仰者には到底なり得るものではない、とまで説かれている。


もしも旧約聖書、新約聖書から学ぶべき内容を、すべて体験を通して学ばなければならないとしたら、イスラエル民族が歩んだ歴史と同じ道を再び歩まなければならない、ということになる。

イスラエル民族が何千年もの時をかけ、失敗や困難を含めて、多くの体験から得た教訓を、もう一度追体験して学ばなければならない理由はない。

そんな体験などしなくても、先人たちが残した教訓や戒めを心に留めて、同じ轍(てつ)を踏まないに越したことはないのである。
 

歴史から学び生かせるのは人間だけ

もちろん体験は必要である。

神様から賜る奇蹟の体験によって、神様の御存在を知ることができ、また聖書に記された奇蹟も事実であると信じることができる。

また自分が苦労することによって、人の苦しみも分かるようになる。


しかし、人間は体験以外からも学ぶことができる存在である。

だからこそ、人類の文化は発展してきた。

先人たちが築き上げた知恵や経験を生かし、新たな工夫を加えることによって、人類の文化は発達してきたのである。

歴史から学んで未来に生かすことは、他の動物にはできない。

 

物事を見聞きして感じ取る「感性」と、そこから真理を悟っていく「悟性」があれば、人の体験からでも、歴史の中からでも真理を学び取ることはできるし、その感性と悟性が全くなければ、自分が何度体験しても学び取ることはできないだろう。

それでは、初代様はどのようでいらっしゃったのだろうか。

 

初代様が生涯、ご自身に戒められたイエスの体験
 

初代様はご訓話の中で、モーセ、イエスのことついても説かれている。

その中で、「イエスが磔になった理由」について次の通りお話しくださっている。
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キリスト在世中時代に、本教の如く、神は灼かに奇蹟を現されたことによって、信者がキリストその人を、神のように思い込んでしまい、そのためキリスト自身も、神扱いされて尊ばれているうちに、勢い自分も神であると悟り違いをしてしまったのであります。
(中略)
もし人間が神になりすませば、神様の方では
『汝は実に偉い奴じゃ。汝は神であるのか。さようか。しからば我は昇天致すが故、汝が我と同様に救いの光線を照らしてみよ』
ということで、そこに使命がなくなってしまい、また神の守護もなくなり、従って神の支配より離れた時、今度は何者の支配を受けねばならないかと言いますと、宇宙間において、人類を支配するものは、ただ、神と魔鬼のみであるが故に、今度は入れ替わって悪魔の支配を受けることになるのであります。

(中略)
私にとりましては、キリストの犠牲が実に尊い体験となっておりまして、私は再びキリストの足跡を踏むような、失敗はしないという自信がついておるのであります。それ故に、人間味を、たっぷり出し、決して神気取りをしない理由がそこにあるのであります。
(初代様お諭し 「奇蹟的救い」 より)
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と初代様は説かれている。

 

このイエスの十字架の真実は、神様が初代様に仰せになられたことであり、このお話から、「神様の厳格さ」を知ることができる。

イエスが磔になったのは今から約2000年前だが、2000年経過した後に、神様が初代様に戒めとして御与えになっておられる。

このことから、神様の厳格さは時代を超越し、一貫されていることを伺い知ることができる。

 

このイエスの体験は、初代様ご自身の体験ではない。

聖書には記されてないが、神様が初代様に御告げになられた「2000年前の歴史上の出来事」である。
初代様は、この歴史上の出来事を、ご自身の戒めとして、生涯心に刻んでおられた。

したがって、「キリスト教を父とし」の御教えを、誰よりも心に留めておられたのは、初代様でいらっしゃったと、拝察申し上げるのである。

今回のテーマ、「このブログで聖書の引用が多い理由」について、もう一度申し上げれば、

御神示に、「キリスト教を父とし」との御言葉があるからである。

そしてその意味は、過去における、神様と人間との交わりの歴史の中から、厳粛なる神の教えを学び、神様に対する人間の本当のあり方を学べ、という意味であり、その中から一貫した神と人との関係を学ばずしては、本当の信仰者とはなり得ない。

ということを、第二世教主 島田晴行先生が説かれているからである。

 

次回は、自分自身の歴史、つまり自分自身の過去をどのように捉えるか、ということについて、天心聖教の教えをもとに探求してみたいと思う。