今回は、「誓願の祈りと交換条件」について、書かせていただきたいと思う。

誓願の祈りと交換条件

前回まで数回にわたり、神様との「契約」について書かせていただいたが、神様とのお約束は「契約」だけではない。
信仰者が、行(ぎょう)、奉仕、善行などの「交換条件」を自ら課し、神様に実行をお誓いして祈願する場合がある。

その場合は「契約」ではなく、「誓願」と言う。


「誓願」という言葉は、キリスト教や仏教でも使われる言葉だが、たとえば旧約聖書から引用させていただくと、
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ヤコブはまた、誓願を立てて言った。
「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられぬなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。

(創世記 28:20-22)
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と記されている。
また、「民数記」と「申命記」で、モーセは次の通り語っている。
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モーセはイスラエルの人々の諸部族の長に語った。

これは、主の命じられたことである。

人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。

すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。
(民数記 30:2-3)
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神様にお誓い申し上げたことは、必ず実行しなければならないと、モーゼは説いている。

 

また、新約聖書に記されたイエスの言葉は少し違っている。
「誓ってはならない」と説いているのである。

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あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、

『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』

と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。
天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。
エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。

髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
(マタイ 5:33-36) 
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このイエスの言葉は、モーセの教えを否定しているようにも受け取れるが、キリスト教の結婚式で「誓いの言葉」があるとおり、神様への誓いがキリスト教で禁じられている訳ではない。

安易に誓ってはならない、ということをイエスは説かれたのだと思う。


人間は、明日に何が起こるか知ることはできないし、未来を確定させる権限もない。

したがって未来を断言することは不可能であり、それを考えれば、誓いを守れるかどうかも、未来にならないと分からないのは確かである。


しかし、たとえそうであっても、神様の御守護を信じ、必ず成し遂げる覚悟を持って、誓いを果たすべく最善を尽くして祈願をする。
それが「誓願」である。

 

したがって、誓いを果たす覚悟のない誓願、すなわち、「この誓いは果たせないかも知れないな」という気持ちが少しでもあるなら、安易に誓ってはならない。

ということをイエスは説こうとされたのだと思う。

 

祈願についての初代様のお諭し

天心聖教でも、神様に祈願するとき、あらかじめ、自分が何をするかという「交換条件」を、神様にお約束して祈願する場合がある。

天心聖教では「誓願」という言葉はあまり使わないが、神様に誓って願うのであるから、まさしく「誓願」である。
必ずそうしなければならないと教えられているわけではないが、初代様は、それが祈願における常識であることを説かれている。


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祈祷という意味は、自己の心身を清浄にしてお願い申すという意味で、自分以下の者に何か用件を頼むのと訳が違って、自分の力では到底及ばぬところの強大なる力を有するものに請願して助けてもらうという意味である。
その意味からして、祈祷には礼儀を正して慎重な態度を以て臨み、いささかでも無礼の態度があってはならない。無礼の態度があって、相手の感情を害したのでは、人間同志だって成り立たないのと同じことである。

(中略)
そこで神様にお願いするには、あらかじめ交換条件が必要でもあり、常識でもあるので、このお願いが成就いたしましたなら、どういうお礼を致しますとか、また「この病気を治してください。その代わり好きな酒とかタバコを断ちます。また平癒した後は慈善を行います」とか、「人を救うために何人くらい救いの道にお手伝いいたします」というように、神に誓ってからお願いにうつるのが常識なのである。
(初代様お諭し「日参の意義」より)

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このように、

交換条件とは、神様に対する礼儀であり、信仰の深さや祈願の真剣さを表すものであって、

単に「交換条件を祈願内容に加えれば良い」というものではない。

 

神様に対して非礼となる「交換条件」もある


ある日、信徒の方が、他の家庭の立派な御神前を見て、自分も立派な御神前をつくりたいと思った。

しかし自宅は狭く、経済的事情もあってすぐにはできない。
そこでその人は、初代様に事情を申し上げ、清潔に飾るということでよろしいでしょうか、とお伺いした。
すると、初代様は次のようにご指導をされた。


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神様はすべてを御存知だからこれでよろしい。
金もないのに借金してまで造れとは言わない。
迷信はだめですよ。金もないのに高利貸から金を借りて御神前だけ造れば福徳が授かるというのは迷信です。そうではなく、神様が御存知だから自分も不断の努力をして、金の運を授けていただいて、金ができたら家をいい所へ移転するとか、新築するとか、増築するとかして
(中略)立派な御神前を造ればいいんです。
こういう交換条件を出す人がいるんだね。

例えて言えば「神様ひとつ金を儲けさせてください。そしたら立派な御神前を造ります」と言うんだね。その人はバチが当たります。これは絶対禁物です。

自分の気持ちで、こんな御神前では神様にもったいないから、何とかひとつ働いて金を貯めたら造ろうと、それならいいんだ。

造りますから金を、福徳を授けて下さいというのは全部ダメ。大罰が当たります。

そんな交換条件は許されません。「その方が努力しないで、我に御神前を造らせるつもりか」ということになりますよ。
(初代様お諭し「福徳・開運を語る」より)

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と、初代様は説かれた。

 

「神様ひとつ金を儲けさせて下さい。そしたら立派な御神前を造ります」

という祈願は祈願ではなく、不遜にも、自分は何もしないで楽に儲けようと、神様に取り引きを持ちかけるようなもので、大変失礼なことなのだ。

交換条件とは言っても、神様に対して非礼となる交換条件であってはならないのである。

 

しかし、

「私は○○○をさせて頂きます。そして人事を尽くしてまいりますので、何卒この願いを成就させてください」

という真剣な祈願は、同じ「交換条件」でも、祈る心は前者と全く違う。

 

初代様のお諭しに基づけば、「交換条件」による祈願、すなわち「誓願」とは、

神様に礼儀を尽くした上で、「交換条件」の実行をお誓い申し上げ、それを実行することによって、自らの信仰と真剣な思いを、神様に表す祈りなのである。

 

そのことを初代様のお諭しよりあらためて学ばせていただき、自分の祈りについて、今一度振り返ってみようと思った。