今回は、「無条件契約」と「条件付契約」という、キリスト教の教えについて書かせていただきたいと思う。
「無条件契約」、「条件付契約」とは、聖書に記された言葉ではなく、キリスト教神学によって後につくられた言葉だが、確かに聖書を読むと、神様との契約には、「条件付きの契約」と「無条件の契約」の2つあることが分かる。
「無条件契約」とは、神様が無条件に、
「わたしは~する」
と仰せになられた契約、
「条件付契約」とは、神様が人間に、
「もしあなたが~するなら、わたしは~する」
と仰せになられた契約、
のことである。
キリスト教では聖書の契約を、「エデン契約」、「アダム契約」、「ノア契約」、「アブラハム契約」、「モーセ契約」、「パレスチナ契約」、「ダビデ契約」、「新しい契約」の8つに大別し、無条件契約と条件付契約について説かれている。
私はキリスト教徒ではないので、キリスト教神学をもとに書くことはできないが、聖書に記された神様の御言葉をもとに、「無条件契約」と「条件付契約」について考えてみたいと思う。
聖書に記された「契約」とは、神様が御示しになられた「未来の約束事」である。
ある意味「予言」とも言える。
聖書には、神様が御示しになられた「契約」、つまり「未来の約束事」が随所に記されている。
そしてその「未来」が、条件付きの未来、つまり「人間側の選択によって変わる未来」なのか、それとも「人間側の選択とは無関係に定められた未来」なのか。
今回は、そのことを主題に考えてみたい。
無条件契約
「無条件契約」の代表的な例として、神様がアブラハムに約束された土地(カナンの地)の契約がある。
神様はアブラハムに、
「あなたの子孫にこの土地を与える。
エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」
この契約は、「アブラハムの子孫が~するならば」という条件の付加は無い。
したがって、何があろうとも必ず成就される「無条件契約」である。
また、神様がノアに約束された、
「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
という契約も、条件の付加がない「無条件契約」である。
条件付契約
もう一方の「条件付契約」は、モーセに「律法」を授けられた以降に多い。
モーセや、その後の預言者、また歴代の王に対し、「あなたが~するならば、わたしは~する。あなたが~しないならば、わたしは~する」という神様の御言葉が多くなる。
例えば、レビ記の中で、神様はモーセに次のとおり仰せになられている。
~~~~~~~~~~
あなたたちがわたしの掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば、わたしは時季に応じて雨を与える。
それによって大地は作物をみのらせ、野の木は実をみのらせる。
穀物の収穫にはぶどうの収穫が続き、ぶどうの収穫には種蒔きが続いて、あなたたちは食物に飽き足り、国のうちで平穏に暮らすことができる。
わたしは国に平安を与え、あなたたちは脅かされることなく安眠することができる。
(中略)
わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。
わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。
(中略)
しかし、わたしの言葉を聞かず、これらすべての戒めを守らず、わたしの掟を捨て、わたしの法を捨て、何一つわたしの戒めに従わず、わたしの契約を破るならば、わたしは必ずあなたたちにこうする。
すなわち、あなたたちの上に恐怖を臨ませ、肺病、失明や衰弱をもたらす熱病にかからせる。あなたたちは種を蒔いてもむなしい。敵がそれを食べ尽くす。
わたしは顔をあなたたちに向けて攻める。
それゆえ、あなたたちは敵に打ち破られ、あなたたちを憎む者に踏みにじられ、追う者もないのに逃げ去らねばならない。
このような目に遭ってもまだ、わたしの言葉を聞かないならば、あなたたちの罪に七倍の罰を加えて懲らしめる。
~~~~~~~~~~
神様の御言葉に従うならば大なる「祝福」を授け、逆らうならば大いなる「罰」を与える。
という、とても厳格な内容である。
この神様の御言葉は、「人間側の選択によって変わる未来」、つまり「条件付契約」である。
このように聖書には、「無条件契約」と「条件付契約」の2つがあるが、どちらも神様からの御命令によるものであり、契約内容はすべて、神様の一方的な御意志によって決まる。
さてそこで、「無条件契約」について考えてみたい。
条件が何もないのなら、人間側が神様に従順であっても不従順であっても、何も変わらずに、同じように実現するのだろうか?
神様がアブラハムに契約された「約束の地カナンへの移住」は「無条件契約」だった。
したがって人間側がどうであろうと、必ず実現する契約である。
それならば、イスラエルが神様に従順であっても不従順であっても、何も変わることなく、予定通りカナンの地に移住することができる。
ということになる。
果たしてそうだったのか?
そのことについて、「民数記」と「申命記」に記された「カデシュ・バルネア事件」をもとに考えてみたい。
カデシュ・バルネア事件
イスラエルの民はエジプトから導き出された後、ホレブの山(シナイ山)に導かれ、そこで神様からモーセをとおして「十戒」をはじめとする「律法」授かり、その山で民は約2年間の信仰教育を受けた。
そしてある日、神様はモーセに仰せになられた。
「あなたたちは既に久しくこの山にとどまっている。
向きを変えて出発し、アモリ人の山地に行き、更にその近隣地方、すなわちアラバ、山地、シェフェラ、ネゲブ、沿岸地方に行きなさい。
更にカナン人の土地、レバノン山、大河ユーフラテスにまで行きなさい。
見よ、わたしはあなたたちにこの土地を与える。」
いよいよ、約束の地カナンへの移住が始まろうとしていた。
そこでイスラエル民族の一行は、荒れ野を通り、カデシュ・バルネアという地まで来た。
そこでモーセは、レビ族以外の各部族から一人ずつ、11人を偵察に遣わすことにした。
偵察を終えて戻ってきた人たちは、モーセに報告した。
「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。
そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。
しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。
ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます。」
と、攻めるのは不可能だと言い出したのである。
しかし、ユダ族のカレブだけは違った。
「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」
しかし、他の者たちは反対し、
「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」
と言って、イスラエルの人々に悪い情報を流したのである。
それを聞いたイスラエルの民たちは、モーセとアロンに対し、一斉に不平を言いはじめた。
「どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。
妻子は奪われてしまうだろう。
それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。
さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。」
と口々に言い出した。
しかし、ヨシュアとカレブだけは、
「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。
もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。
主に背いてはならない。主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」
と人々に訴えた。
すると皆は、「彼らを石で打ち殺せ」と言って、ヨシュアとカレブを殺そうとしたのである。
そのとき、神様が現われて、モーセに仰せになられた。
「この民は、いつまでわたしを侮るのか。
彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。
わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう。」
御怒りになられた神様は、イスラエル民族の中で、モーセの子孫だけを残し、強大な国民にする、と仰せになられたのである。
このときもモーセは、神様に必死に縋り、とりなした。
すると、神様は次のとおり仰せになられた。
「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう。
しかし、わたしは生きており、主の栄光は全地に満ちている。
わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない。
わたしをないがしろにする者はだれ一人としてそれを見ることはない。」
すると人々は恐れて態度を一変した。
「我々は主に対して罪を犯しました。我々は攻め上って、我々の神、主が命じられたように戦います」と言って、めいめい武器を携えて山地へ上って行こうとした。
しかし、神様はモーセに仰せになられた。
「彼らに言いなさい。攻め上って戦ってはならない。
わたしはあなたたちのうちにいない。敵に撃ち破られてはならない。」
モーセは神様の御言葉を民に伝えた。
しかし人々は耳を貸さず、またしても神様の御命令に背いて山地へ上っていった。
彼らは懺悔反省をしたのではなく、再び神様に逆い、我を通しただけであった。
そして彼らは、撃ち破られて戻ってきた。
神様は、もうその者たちの言葉に、耳を傾けようとはなさらなかった。
このカデシュ・バルネア事件によって、ヨシュアとカレブを除いて、その時20歳以上の民衆は、誰一人としてカナンの地に入ることを許されず、その者たちがすべて死に絶えるまで、約束の地への移住は先延ばしにされたのである。
2年で移住できるはずだったが、40年かかってしまったのはそのためである。
出エジプトを経験した第一世代の民は、2年間の信仰教育の卒業試験に落第してしまったのかも知れない。
神様が約束の地に導かれた理由
カデシュ・バルネア事件から38年の歳月が流れ、第一世代の人たちは死に絶えた。
そして、出エジプトを経験した人が少ない第二世代の人たちが、いよいよ約束の地に入ろうとしたとき、モーセが遺言として残した言葉が「申命記」である。
その「申命記」の中で、モーセは、これから約束の地に入る民に対し、次の通り戒めている。
~~~~~~~~~~
あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民(先住民)が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。
またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである。
あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。
あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。
あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。
~~~~~~~~~~
神様がイスラエルの民を約束の地に導いてくださるのは、民が神様に従順だったからではなかった。
1.約束の地の先住民が犯し続けてきた長年の罪を裁かれるため。
2.神様がアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた契約(無条件契約)を果たされるため。
という2つの理由であることを、モーセは民に説いたのである。
荒れ野をさまよう期間が40年間で済んだのは、モーセが神様に御許しを乞い願ったからであり、もしもモーセの嘆願を神様がお聞き届けくださらなければ、モーセの子孫が増え広がるまで、再び何百年という歳月を待たなければならなかったかも知れない。
しかし、たとえそうであったとしても、約束の地への移住は必ず実現する。
「無条件契約」だからである。
このカデシュ・バルネア事件より伺い知ることが出来ることは、
「無条件契約」は必ず実現する。しかし実現までの「期間」は、人間側の信仰によって決まることがある。
ということである。
次回はそのことについて、さらに探求してみたいと思う。