今回は、「懺悔と先祖供養」について書かせていただきたいと思う。

「懺悔」とは、自分のしたことが悪いことだと気がついて、それを悔い、神様に告白してお詫び申し上げることである。

そして「反省」とは、自らを省みて、自分の心と行いを改めることである。


「懺悔」は、キリスト教においても大切なこととされているが、天心聖教の懺悔には、キリスト教にはない、「先祖の罪を神様に懺悔してお許し願う」という、「先祖供養」がある。

キリスト教と天心聖教は、同じ宇宙絶対の神様が御降臨あそばされた宗教である。

それなのになぜキリスト教には、「先祖の罪を神様にお許し願う」という教えがないかと言うと、初代様は、イエスはそのことを神様に教えられないうちに処刑されてしまったからである、と説かれている。

天心聖教の由来をよく読むと、神様は御降臨と同時に、すべての真理を初代様に明らかにされたわけではなく、御神示や体験をとおして一つ一つお教えになっておられる。
「我はかつてイエスを遣わした神である」という御神示も、御降臨後約10年してからであったことを考えれば、イエスも初代様と同じように、はじめからすべてを神様に教えられたのではなく、一つ一つ順を追って神様から真理を教えられたと拝察申し上げるのである。

 

天心聖教の先祖供養とは

天心聖教の「先祖供養」については、「先祖供養①~④」の項で詳しく書かせていただいたが、簡潔に申し上げると、

天心聖教の先祖供養とは、神様に対して、先祖が生前犯した罪を、先祖になりかわり懺悔し、罪を解いていただき、霊界での先祖の幸せを神様に願うことである。

それによって、先祖の悪因縁が除滅されると同時に、子孫の悪因縁も除滅されて、霊人ともに救われるのである。

 

一般的に先祖供養と言えば、仏壇に手を合わせ、お供え物をあげたり、お墓参りに行くことを言う。

そのように先祖を尊ぶ日本の文化は素晴らしいものであり、その真心をご先祖様は喜んでくださるだろう。

しかし、先祖が生前犯した罪を許す権限は人間にはない。
また、生前の罪によって霊界で苦しむ先祖を救う力も人間にはない。
仏壇にお供え物をしたり、お墓参りに行ってご先祖様にご挨拶申し上げる心は誠に尊いが、先祖を救うということは、また別の問題なのだ。

相手が人間であっても同じことが言える。

人に親切にすることは大切だし尊いけれども、他人の因縁も含めて本当に救うことは、人間同士でもできるものではない。
同じ現界の人間同士でさえ、人を本当に救うことができないのだから、ましてや霊界という別世界に住む霊を救うことなど、人間には不可能なのである。

 

天心聖教では、「先祖は過去の自分であり、子孫は未来の自分である」と教えられており、天心聖教の「先祖供養」の本質は、過去の自分の罪を神様にお赦し願う「懺悔」であり、先祖の幸福を神様に願う「祈願」なのだ。

 

したがって、悪因縁を除滅するためには、不徳の罪が、先祖によるものであれ、自分自身によるものであれ、まず神様に懺悔してお許し願うことが、とても大切なのである。

 

人は善因縁と悪因縁の両方をあわせ持っている
 

しかし人にはいろいろな考え方があり、「罪を犯しても、その分、善行を積めば消える」と考える人もいる。

確かにそれが本当ならば、懺悔の必要はない。

が、そうはいかない。
因縁とは、「10の罪を犯しても、10の善行を積めば、差し引きゼロになる」というものではないからである。

常識的に考えれば分かることだが、たとえば、Aを殺し、その一方でBの命を救ったからといって、Aへの殺人罪が消えるわけではない。

それと同じである。
罪は軽減されるかもしれないが、無罪にはならない。

それで無罪になったら、それこそAは浮かばれない。

この場合、Aを殺した「不徳」と、Bを救った「徳」の両方が残る。
つまり、善行による「善因縁」と、悪行による「悪因縁」の両方を、あわせ持つことになる。

そしてそれが、そのまま子孫に受け継がれ、善因縁に対しては善い報いが、悪因縁に対しては悪しき報いが現れる。

悪人がたった1つの善行によって善き報いを受ける場合もあれば、善人がたった1つの悪行によって悪しき報いを受ける場合があるのと同じである。

そのようにすべての人が「善因縁」と「悪因縁」を持ち合わせていて、その割合は人によって異なるものの、善因縁が一つもない人はいないし、悪因縁が一つもない人もいない。
すべての人が「善因縁」と「悪因縁」をあわせ持ち、その割合や軽重によって、人の運命が天の法則により定められるのである。

 

悪因縁を残さないための懺悔と信仰精進

 

初代様は、悪因縁を残さないために懺悔がとても大切であることを、次のとおりお諭しくださっている。
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私たちの代々の先祖の犯せる罪に対する穢れというものは、たくさん積み重なっております。その罪穢れを背負って生まれているのが、我々人間なのであります。
これを宿罪と称します。宿罪とは自分に罪が宿っているということです。
その宿罪のある自分が、知るや知らずやまた毎日のように罪穢れを作っております。
こう申し上げますと、中には「私は善人だ。罪など作らない」という人もあるかもしれませんが、しかし如何に善良な人でも、また如何に修養を積んだ人といえども、この世の中に生きていく以上は、神ならぬ身の人間である以上は、罪穢れと無縁に世渡りすることは不可能なことであります。我が身が犯す罪穢れとは、犯罪ばかりが罪穢れではございません。
人の感情を害すとか、あるいは争いとか、心にもないうそをつくとか、その他広い意味で、日々の生活の中には、神に恥じないとか、良心にとがめない、というような生活はあり得ないことです。
また良心にもとがめず、神に恥じないような生活はできるものではありません。
ですから日々の信仰の大切なところはここです。
毎夜その日を振り返ってみると、今日は良心に恥じない一日であったということは、誠に数が少ないのであります。酒を飲みすぎては健康によくないばかりではなく、ややもすると、家族の誰かが迷惑する、朝寝坊する、一寸怠けたいといったことでも、神様の前では良心に恥じることになるのであります。
こう考えますと、私は善良だ、良心に恥じないなどという聖人は、世の中には一人もいないでしょう。それよりも人に判らないように、内緒でやるほうが多いでしょう。
ですから、朝は今日一日のご加護を願い、晩は今日一日犯した罪穢れを、密かに神様に懺悔して、明日の自分を磨いていき、その日のことはその晩に神様にお許し願い、その因縁を子供に残さないために、日々朝夕「祝詞」を奏上しての信仰精進なのであります。

(お諭し「開運の秘訣」より)
~~~~~~~~~~
と説かれている。

したがって、神様に先祖の罪をお許し願う「先祖供養」とともに、日々の生活の中で知るや知らずや犯した罪穢れを、日々朝夕に、神様に懺悔してお許し願い、自分にも子孫にも「悪因縁」を残さないための信仰なのである。
そして、徳を積み、幸せになって「善因縁」を残すための教えが「神の聖旨」である。

どれだけの善因縁を子孫に残せるかは分からないが、悪因縁を残さずに、一つでも多くの善因縁を残せるように、日々信仰精進していきたいと思う。