前回は、「男女同権」について、聖書の記述をもとに書かせていただいた。

前回の内容を要約すると、

神様は、「男」を創造され、その後に「女」を創造された。

そして神様は、女に対して、男を助け男に従うことを命じられた。

出エジプト記や申命記に記された「モーセの律法」も、その秩序に準じている。

ただし、十戒に「あなたの父母を敬え」と教えられているとおり、敬意の対象として父と母を区別していない。したがってその本質は「男女同位」である。
聖書に記されている男女の関係は「権威」と「従順」の関係だが、それは家庭や社会を収めるために、神様が定められた「秩序」と「役割分担」であって、けして「男尊女卑」ではない。

ということを申し上げた。

神様は初代様に、
「我はかつてイエスを遣わした神である。
汝、キリスト教を父とし、その方の宗教を母として、世界を救われよ」

との御神示を下された。

前回は、父なる宗教「キリスト教」の教えをもとに書かせていただいたので、今回は、母なる宗教「天心聖教」の教えをもとに書かせていただき、この項を終わりたいと思う。

 

キリスト教の教えと同じ男女の役割

結論から申し上げれば、「男女の役割」について、キリスト教と天心聖教の教えは同じである。

男女に関する初代様の教えを一部抜粋させていただくと、

~~~~~~~~~~
男女同権とは、従来、日本の弊風たる男尊女卑を改め、男のわがままを戒めると同時に、女の屈従をなからしめ、男女同位の和楽の世界をいうものである。
(「孝行」より)

~~~~~~~~~~
神様は、人間はじめ動物に至るまで、女は男に従うように造ってある
(「本教の婦人部に告ぐ」より)
~~~~~~~~~~
男性とか女性とかという性ということから申せば、その性によって受け持ちが違うのであります。人の体でも頭は頭の働き、目は目の働き、心臓は心臓の働き、手足は手足の働きをして、この部分部分の働きが調和してこそ、一つの立派な人格が出来上がるのであります。
(「男女同権とは」より)
~~~~~~~~~~
神様は男性と女性とは全然違った者をお造りになったのでありまして、その造られた形のままが誠に尊いのであるということを忘れてはならないのであります。
(「婦人の歩むべき道」より)
~~~~~~~~~~
と説かれている。

 

神様は、男に従うように女を創造された。

性によって受け持ちが違い、その造られたままに生きることが尊く、男女ともに、自分の受け持ちと働きが調和してこそ、立派な人格が出来上がる。

そのように教えられている。

したがって、天心聖教の教えも、聖書で説かれている、
女は「男を助ける者」として神様に創造され、男に従うことを命じられた。

という教えと同じである。

 

しかし人間は不完全であり、神様の御心にかなった理想の男女に近づくには修行が必要となる。

そのために初代様は「夫婦円満」について、あらゆる場面で説かれていらっしゃり、

そこが聖書とは少し違うところかも知れない。

 

結婚の目的

この「夫婦円満」の教えについては、新たに項を設けて書く必要がある大きなテーマだが、一部触れさせていただくと、「結婚の目的」について、初代様は次のとおりお諭しくださっている。
~~~~~~~~~~
男女間において妻を迎え、夫を迎える目的はどこにあるのか、たとえば妻側に言わせれば、せいぜい働きのある良き夫を持って何不自由なく暮らしたい、と言う。
夫側に言わせれば、せいぜい節約してよく働き、一生懸命につくしてくれる婦人がいいと言う。

つまりお互いに自分のための結婚ということになるのでありますが、これを神様より申されるなら、

「汝らの心の持ち方は逆であるぞよ。そんな浅はかな考えで一緒になるからこそ、その理想はたちまち破れてしまい、不幸の淵に落ちて行くのである。我の申すことをよく承れ。いいか、妻を持つのは自分のためではない。妻のためになる夫であらねばならぬ。妻の生活をよりよくするための責任は誰であるのか、それは夫の責任であるぞよ」

と申されます。

また妻に対しては、

「自分のために夫を持つのではないぞよ。いいか、妻は夫の生活を成り立たせ、社会に立たせて、十分に活躍の出来るようにつくして、夫を偉大なる人物に仕上げる責任は妻にあることを忘れるな」

と申されるでありましょう。
かくの如くに、お互いが相手のために責任を果たし合うのが、本当の夫婦といえるのであります。

にもかかわらず、お互いが相手を幸福にすることを忘れていて、自分本位、つまり自分の幸せのみに心を奪われているという、そういう心得違いの気持ちが強ければ強いほど、お互いに不満不足を言い出すから、ゴタゴタが絶えないのであります。
(初代様お諭し「夫婦楽しく一家円満に暮らす秘訣」より)
~~~~~~~~~~
と説かれている。

結婚の目的は、

「相手に自分を幸せにしてもらうためではなく、自分が相手を幸せにするため」

その自覚を持つことが結婚のスタートなのだ。


夫は、「妻の生活をよりよくすること」。
妻は、「夫の生活を成り立たせ、社会に立たせて、十分に活躍の出来るようにつくして、夫を偉大なる人物に仕上げること」。

女性の役割は大きい。

 

神様が女性に与えられた役割

家庭において、神様は「男」に「家長」の役割をお与えになられ、「女」には「協力者」の役割をお与えになられた。
たとえ「共働き夫婦」であっても、夫の役割と、妻の役割が変わることはない。

「働く女性が多くなった」と言うけれども、男も女も、人間はすべて働きながら生きている。

太古の昔と現在では、働き方は大きく変わったが、

「自活をし、家族を守り、子供を育てる」

そのために働いていることは、男も女も変わらない。

また昔も今も変わらない。


働く目的は人によって違いはあるだろうけれども、共通していることは、自活して生きるためであり、家族を養い、子供を育てるためである。
男であれ女であれ、専業主婦であれ兼業主婦であれ、みなそのために働いているのであって、そう考えれば、夫婦のすべてが共働きなのだ。

そして妻の働きの第一義が、初代様が説かれているとおり、
「夫の協力者として夫に従い、夫が社会において活躍の出来るように努めること」

である。
 

初代様は、

~~~~~~~~~~

おかずの献立よりも、夫を活躍させて偉大な人物になさしめる献立を毎日作ることが一番肝心であります。
夫という者は、妻のやり方一つで、偉くもなれば、意気地なしにもされてしまうのであります。

(「本教の婦人部に告ぐ」より)

~~~~~~~~~~

と説かれている。

また初代様は、
~~~~~~~~~~
男性が女性に要求するところは、心のやさしい、明るい感情で、美しい愛情こそ永遠に飽きることのない女性なのであります。
その永遠に飽きざるところの美しい感情を生み出す源は何でありましょう。

それは絶対の愛であります。

絶対の愛とはどういう愛かと申しますと、己を忘れて愛するということであります。

すなわち相手方を主として己が従となるのであります。

大きく考えた時、また目先だけでなく、一生を通じて通算した時、これが本当に己を生かして、己が幸福の世界に住むことのできる源であります。
(お諭し「男性の要求する婦人」より)
~~~~~~~~~~
と説かれている。

 

己を忘れて愛する。

相手方を主として己が従となる。


前回引用させていただいた、旧約聖書「ルツ記」のルツは、まさにそのとおりに生きた女性だった。
ルツは、夫を助け、夫に従い、夫の亡きあとも姑を助け、姑に従った。

己を忘れて尽くした「愛」によって、己を生かすことができ、その結果、神様の御加護のもとに、ルツの子孫はユダヤ民族最高の名門家となったのである。

 

父は教えにして、母は愛なり

 

「汝、キリスト教を父とし、その方の宗教を母として、世界を救われよ」
との御神示の、「父」と「母」の意味について、第二世教主 島田晴行先生は、
「父は教えにして、母は愛なり」と説かれた。


女性には、細やかに人を思いやる「愛」があり、その愛を、夫や子供に向けることが、妻の役割であることを教えられている。
男性にももちろん愛はあるが、女性のような細やかさはない。
したがって、母親の細やかな愛にはとてもかなわない。
その「愛」の力で家庭を導く重要な役割を、女性は神様から与えられているのである。

男性であれ、女性であれ、大切なことは権利の主張ではなく、神様から与えられた本分を全うして、共に幸せになることだと思う。