前回に続き、「男女同権」について書かせていだきたいと思う。

前回は「ジェンダー・フリー」の思想について触れた。
ジェンダー・フリーとは、従来の「男はこうあるべき」、「女はこうあるべき」といった固定観念を持たない考え方のことであり、「男らしい」、「女らしい」という表現も、好ましくないとしている。

しかし、「女らしく生きたい」、「男らしい人が好き」という女性は多くいらっしゃるし、逆に男の立場でも同じことが言えるので、ジェンダー・フリーの考え方に賛同するかどうかは、男女を問わず人それぞれである。

ただ、人間がつくった「男女の観念」というものは確かにあると思う。
原始時代なら、男は野で狩りを行い、女は子育てと家事をする、という事が当たり前だったが、文化が発達し、合理化や機械化が進むと同時に、力を必要とする仕事や、危険を伴う仕事は減った。

さらにコンピュータが普及して、AIまで登場した現在では、技能とセンスがあれば、男女を問わず、いろいろな職業を選べる時代になった。

そのように、ジェンダー・フリーの思想が生まれた背景に、科学の進歩があったことは否めない。
すべてを人力に頼っていた時代は、男女の役割分担ははっきりしていたし、そうしなければ人々の生活は成り立たなかった。
その歴史が長く続いた中で、「男の仕事」、「女の仕事」という、人間がつくりあげた観念は、確かにあったと思う。

しかしそれだけで、男女の感覚の違いのすべてを説明することはできない。
赤ちゃんの成長過程で、教えもしないのに、男女の違いが現れてくるのを感じた親御さんは多くいらっしゃると思う。

男と女には、それぞれ何か先天的な違いがあるのも事実である。

その男女が持つ、先天的な違いとは何か?

ということをテーマに、今回は、「創造主」でいらっしゃる神様の御心から、男と女の違いについて、拝察申し上げてみたいと思う。

神様は初代様に、
「我はかつてイエスを遣わした神である。

汝、キリスト教を父とし、その方の宗教を母として、世界を救われよ」

との御神示を下された。

この「父として」と、「母として」という神様の御言葉からも、父と母のあり方には違いがある、ということを、うかがい知ることができる。

そこで先ずはじめに、父なる宗教「キリスト教」の教えから、男女のあり方を探ってみたい。

 

旧約聖書の「創世記」より

キリスト教の教典は、「旧約聖書」と「新約聖書」である。

旧約聖書に記された夫と妻の関係は、「権威」と「従順」の関係にある。
その関係は、神様が、アダムとエバを創造されたときに由来する。

旧約聖書に記された、人間創造の場面、
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主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

(創世記2:7)
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これが人の誕生である。

この時はまだ、性別の観念がない。


その後、神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と仰せになられ、野の獣や鳥を造られたが、人(アダム)は、自分に合った助け手を見つけることができなかった。
そこで神様は、アダムを深く眠らせてあばら骨の一部を抜き取って女を造られた。
するとアダムは、「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉」、と大いに喜んだ。

獣や鳥ではなく、女は、アダムのあばら骨から創造された分身だったのだ。

しかしその後、エバ(女)はヘビ(悪魔)にそそのかされて禁断の実を食べてしまい、エバはアダムに渡してアダムはそれを食べた。
その罪により、神様は二人をエデンの園から追放し、次のように仰せになられた。

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神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。

お前は、苦しんで子を産む。

お前は男を求め彼はお前を支配する。」

神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。

お前のゆえに、土は呪われるものとなった。

お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。」
(創世記3:16-17)
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エバは、禁断の実を食べた罪と、アダムに食べることを勧めた罪を負った。

そしてアダムは、エバに聞き従って禁断の実を食べた罪を負った。
これがキリスト教で言われる「原罪」である。

この原罪により、
女は、産みの苦しみを与えられ、男に従って生きることを命じられた。
男は、生涯額に汗をし、苦しんで食べ物を得なければならない定めとなった。

そのように、神様は先に「男」を創造され、その後に「女」を創造された。

そして、女は男を助ける者であり、男に従う者となった。
これが創世記の人間誕生の由来に示された、男女の秩序である。

この男女の秩序と役割分担は、モーセの律法においても一貫している。

家庭における、あらゆるものの決定権は、すべて父、または夫とされた。
しかし「すべての決定権を持つ」ということは、同時に「全責任を負う」ということであり、身勝手な振る舞いが許されていた訳ではない。
したがって旧約聖書の男女の関係は、けして「男尊女卑」ではなく、家庭や社会を収めるために、神様が定められた「秩序」であり「役割分担」なのだ。

「男尊女卑」ではない証拠に、モーセの十戒に「あなたの父母を敬え」という教えがある。
敬意の対象として父と母を区別していない。
どちらに対しても「敬え」と命じられている。


そのように、旧約聖書における男女の定めの本質は「男女同位」である。

ただし、役割が違う。
女性は男性を助け、男性に従う。

それが、「創世記」の人類誕生に由来するところの、男女の関係である。

 

ルツ記

 

旧約聖書の「ルツ記」は、神様が定められた女性の生き方を、生涯貫いた女性「ルツ」の物語である。

 

内容をかいつまんで申し上げると、
ユダのベツレヘムに、ナオミというイスラエル人女性がいた。
飢饉のために、夫と一緒にモアブの地に逃れたが、夫は亡くなり、二人の息子が残された。
息子たちはそれぞれ、異邦人であるモアブ人の妻をめとり、そのうちの一人がルツだった。
したがって、ナオミとルツは、姑と嫁の関係になる。
しかしその後、二人の息子もこの世を去り、ナオミと二人の嫁だけが残された。

このような場合、モーセの律法では、父祖の血筋を絶やさないために、そして土地を守り受け継いでいくために、「レビラト婚」と言って、ナオミの亡夫の兄弟が、ナオミをめとって子孫を残す義務を負う。
しかしナオミは高齢のため、それはかなわない。


ナオミはベツレヘムに戻ることを決意し、二人の嫁もナオミについて行ったのだが、その道すがら、ナオミは二人の嫁に言った。
「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。

どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。

どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」

と、二人の嫁に別れを告げた。


しかし、二人の嫁は声を上げて泣き、

「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります。」
と言ったが、ナオミは帰るように二人を説得し、一人の嫁は別れを惜しみながら去った。
しかしルツは、なおも残ってナオミに言った。
「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。

あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。

あなたのなくなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。」

と言い、その言葉を聞いたナオミは、もうルツを解き伏せることをやめた。

その後もルツは、姑ナオミの言うことに何でも従い、一生懸命に落穂拾いをして生活の糧を得ていた。強い日差しの中で懸命に働くルツの姿に心を打たれた地主のボアズは、多くの落穂を拾えるように配慮した。
そのボアズは実は、姑ナオミの亡夫の従兄弟であり、レビラト婚の義務を有する一人だったのである。
ボアズのルツに対する好意と、姑ナオミの助言により、ボアズとルツは結婚した。

そして、オベドという息子が生まれ、ナオミの家は跡取りを得たのである。


そしてなんと、ボアズとルツの間に生まれた息子オベドの孫に、ユダヤ人が最も尊敬する王のダビデが生まれ、ダビデの家からイエスが誕生した。
イエスの父祖をさかのぼれば、ボアズと妻ルツに至る。
ルツはもともと異邦人のモアブ人だったが、イスラエル人の妻として、夫の亡きあとも姑を慕って助け、そして心から従った。

その結果、ユダヤ民族最高の名門家「ダビデ家」の父祖の系図に、名を連ねることになったのである。
 

神様が定められた「助ける者であり、従う者である」という女性の役割を、そのまま見事に果たしたことによる、神様からの御祝福だった。

 

マタイによる福音書のイエスの言葉より

では、新約聖書ではどうだろう。

現在は夫婦の合意がなければ成立しないが、モーセの律法では、それ相応の理由があれば、夫は妻に離縁状を渡して離縁することが許されていた。

イエスの時代に、ファリサイ派の人たちが、イエスを試そうとして2つの質問をした。

 

ファリサイ派の質問①

何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。

<イエスの答え>

創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。

従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。
 

ファリサイ派の質問②

では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。

<イエスの答え>

あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。
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イエスは、「神様が人間を男女に分けて御造りになられた真意」と、「モーセが離縁することを許した理由」を説いて、律法の本質を諭された。

そして男の権威を乱用して、身勝手な振る舞いをすることを戒められたのである。

このイエスの教えに、「男尊女卑」はない。

また、イエスの救いにも、男女の差別は微塵もなく、それは神様の御救いに男女の差別は全くないということでもある。

 

このイエスの教えも、創世記の記述とモーセの律法に基づくものであり、旧約聖書で定められた男女の秩序を否定したものではない。

あくまでも本質を説かれたのである。

 

以上のとおり、聖書に記された男女の関係は、「権威」と「従順」の関係であると同時に、「男女同位」の関係でもある。

その聖書の教えは、何千年もの間、変わっていない。

長い年月の間には、科学の発達があり、一世を風靡するような思想も生まれ、数々の信仰妨害もあった。

それでも聖書の教えは少しも変わることなく、現在に継承されていることは驚異である。

それは、偉大な神様の御導きとともに、キリスト教の先人達の厚い信仰心によるものだと思う。

次回は最後に、母なる宗教「天心聖教の教え」より、「男女同権」について書かせて頂きたいと思う。