今回と次回は、「イエスの伝道とその目的」について、聖書の記述をもとに書かせていただきたいと思う。
ただ、福音書にはイエスの使命について明確に語られている記述がない。
したがって、「イエスはこのような使命をおびて遣わされた」とはっきり言い切ることができないので、イエスの言葉をもとに拝察申し上げたいと思う。
モーセの場合は、神様が使命を下された御言葉が「出エジプト記」に記されている。
天心聖教の場合も、神様が初代様に使命を下された御言葉が、「天心聖教の由来」や「御諭し」に記されている。
したがって、イエスも神様から使命が下される場面があったはずだが、福音書にその記述はない。
旧約聖書と新約聖書の違い
「マタイによる福音書」に記されている神様の御言葉は、
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「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイ3:17)
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「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。(マタイ17:5)
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という2箇所だけである。
旧約聖書は、「神様の御言葉」と「モーセや預言者の言葉」をはっきり区別して書かれているのに対して、新約聖書は、イエスの言葉によってのみ、神様の御心が語られているのである。
イエスが、神様の御言葉を弟子たちに語らなかったのか、あるいは、語られたけれども弟子たちがそれを記さなかったのか。
それは分からない。
また、もう一つ大きな違いは「奇蹟」の内容である。
旧約聖書と新約聖書のどちらにも、数々の奇蹟が記されているが、「病気を癒す奇蹟」に関しては、福音書が圧倒的に多い。
さらにそこに記された奇蹟は、実際に起った奇蹟のほんの一部に過ぎないと書かれている。
この2つが、「旧約聖書」と「新約聖書福音書」の大きな相違点である。
モーセの律法を完成するため
そのように、旧約聖書と新約聖書で相違点はあるものの、イエスは、けっしてモーセの教えと違う教えを説こうとしたのではない。
イエスはモーセの律法について、次のように語っている。
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わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
廃止するためではなく、完成するためである。
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
(マタイ 5:17-18)
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イエスの教えも、歴代の預言者と同じように、モーセの律法を柱としている。
このイエスの言葉にある、「モーセの律法を完成するため」とはどういう意味なのだろうか。
イエスは、「そのために来た」と言われている。
したがって、それが今回のテーマとも言えるのだが、本題に入る前に、
「なぜイエスが当時のユダヤ人に受け入れられなかったのか?」
ということについて今回は書かせていただきたいと思う。
イエスを受け入れなかった人々
イエスは12人の弟子たちとともに伝道した。
その中で多くの人々が奇蹟によって救われ、イエスの教えを受け入れたが、その一方でイエスを受け入れない人々も数多くいた。
特に、ユダヤ教の指導的立場であった律法学者やファリサイ派の人々は、イエスの伝道活動を妨害した。
なぜ、律法学者やファリサイ派の人たちは、イエスをメシア(救い主)として受け入れなかったのだろうか?
旧約聖書では、歴代の預言者がメシア出現を予言している。
したがって、イスラエル人たちはメシアの出現を信じ、それを望んでいた。
そういった中でイエスが現れ、奇蹟によって多くの人々の病いを癒し、神の教えを説きはじめたのである。
本来なら、律法学者たちは、「イエスこそメシアだ!」と、真っ先に喜んで人々に伝えるべきだったが、逆にイエスの伝道活動を妨害し、罪に陥れようとさえしたのである。
その理由の一つは、多くのイスラエル人が待望するメシア像とは違っていたからだろう。
神様の教えを守らなかったために、国を失ってしまったイスラエル人が想い描くメシア像は、イスラエル国家を再建してくれる英雄だった。
そのメシア像に最も近い歴史上の人物は、神様の忠実な僕(しもべ)であり、イスラエル国家に統一と繁栄をもたらした「ダビデ王」のような人物だった。
しかし神様が遣わされたメシアは、そのようなメシアではなかった。
王様でもなく、権威ある祭司でもなく、何の地位も持たない一人の大工の子であった。
さらにイエスは、律法学者たちが説く教えを糾弾し、その教えをもとに信仰している民衆に、「悔い改めよ」と説いて回ったのである。
律法学者たちにとってイエスは、自分たちの権威を脅かす存在に見えたに違いない。
しかし、イエスを通して数々の奇蹟が現れているのは事実である。
悪霊を追い払い、病を癒している現実は認めざるを得ない。
そこで彼らは、「イエスは悪魔の力で悪霊を追い出している。メシアを名乗って神を冒涜する罪人である」と主張し、イエスにさまざまな質問をして、その答えの中から、神を冒涜する証拠を引き出そうとした。
それが、イエスが受けた信仰妨害である。
神様の御意志によって遣わされたメシア
しかし、「メシアとはどのようなお方なのか」、ということを考えてみれば分かることだが、メシア及び預言者は、人間が選ぶのではなく、神様の御心によってこの世に遣わされるお方である。
したがって神様がお遣わしになられたメシアは、人間が思い描くメシア像と同じとは限らない。
メシアかどうか、あるいは、預言者かどうかを証明するものは、
「あの方の教えは納得できる」とか、「受け入れやすい教えだ」といった人間の思いではなく、
そのお方を通して数々の神秘奇蹟が現れ、その人を通して現された神様の御告げが、ことごとく実現していく。
ということによってのみ、本当のメシアかどうかが証明されるのである。
しかし、イエスに反感を持つ律法学者たちにとって、自分たちの望んでいないメシアは、メシアではなかった。
神様が現される奇蹟と教えより、自分たちの主張と保身を優先した。
つまり、神事より人間事を優先したのである。
そのためにイエスは受け入れられず、さまざまな信仰妨害に遭うことになる。
しかしイエスは、そのような信仰妨害に遭いながらも伝道を続けた。
その「伝道の目的」は何だったのか?
次回はそのことについて、聖書の記述より考えてみたいと思う。