前回は「マタイによる福音書」をもとに、「安息日」について書かせていただいた。

今回は続きを書かせていただきたいと思う。

イエスの弟子たちが、安息日に麦畑で麦の穂を積んで食べた。

また、イエスは安息日に病人を癒やされた。

そのことを、律法学者やファリサイ派の人々は、「それは仕事だ。律法違反だ」と主張した。

しかし、イエスは旧約聖書の記述より、本質を説いて諭された。

ということを前回書かせていただいた。


イエスの時代のユダヤ教は、律法の解釈の違いからいくつかの派に分かれていた。

主流派だった「ファリサイ派」は、律法の遵守を重要視する一方で、律法の本質を見失い、形骸化していった。

 

当時の世情を鋭く突いたイエスの言葉

そのような律法学者やファリサイ派を、痛烈に批判したイエスの言葉が、「マタイによる福音書」に記されている。
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それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣(なら)ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
そのすることは、すべて人に見せるためである。

(マタイ23:1-5)

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当時の世情を鋭く突いたイエスの言葉である。


落穂拾い

 

さて、本題の、イエスが説こうとした「安息日の本質」とは何だったのか?


先ほど、イエスの弟子たちが、畑で麦の穂を積んで食べたと申し上げたが、はじめにその事について触れておきたい。

現在の常識からすれば、「他人の畑に勝手に入って、麦の穂を積んで食べたらダメでしょう」と思われるかも知れない。

しかし、モーセの律法では許されていたのである。

「申命記」に次の通り記されている
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隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、篭に入れてはならない。
隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。
(申命記 23:25-26)
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当時は、貧しい人たちのために、その場で食べるのであれば、畑に入って麦やぶどうを自由に採って食べることが許されていたのである。

その他に、次の定めもある。
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畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。
収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。
貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。

(レビ記 23:22)
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と、神様はモーセを通してイスラエルの民に御命じになられた。

地主の中には、農作業者に指示をして、わざと多くの落ち穂を残させた人もいた。
有名なミレーの「落穂拾い」は、この聖書の記述を意識して描かれたと言われている。

オリーブ畑やぶどう畑でも同じだった。
積み残したものはすべて、寄留者、孤児、寡婦などの貧しい人たちのために残しておくことが律法で定められていたのである。

 

この「収穫」に関する定めの本質は、弱者に対する「神の愛」であり、その本質は、実は「安息日」の定めにも通じているのである。

 

安息日の本質
 

「申命記」には次のとおり記されている。
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安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。
あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたとおなじように休むことができる。
あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。
そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。

(申命記 5:12-15)
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この記述に、安息日の理由が2つ記されている。
1.男女の奴隷も同じように休むことができるため。
2.エジプトで奴隷だったイスラエルの民を、神様がお救いくださったことを思い起こすため。

の2つである。

1つ目の理由の、「男女の奴隷も休むことができるため」ということについて言えば、身分の高い人たちは自由に休めるが、奴隷はそういうわけにはいかない。

「今日は休んでいい」と言われても、ご主人様が畑で一生懸命に働いていて、奥様が家で忙しそうに食事の準備をしていたら、それを見ながら奴隷が休むわけにはいかないだろう。
「いいから休め!」と強く言われたとしても、心が休まらない。

それならいっそ働いていた方が楽である。


しかし、身分の高い人から低い人まで、すべての人の労働が禁止されていたら、男女の奴隷も安心して休むことができる。

「安息日」が定められた理由の一つは、そのように社会的弱者の人たちも安心して休むことができるように、という神様の御慈愛による御配慮だったのである。

現在は奴隷制度は廃止され、法律で労働日数や時間が定められているので、過酷な強制労働はほとんどないが、当時はそうではなかった。

この「安息日」によって、奴隷をはじめとする社会的弱者は、安心して休みをとることができたのである。

2つ目の理由の、「エジプトで奴隷であったことを思い起こす」、ということについては、さきほどの「落穂」の定めの記述でも、神様は同じことを仰せになっておられる。
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あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。

わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
(申命記 24:22)
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とある。

「安息日の定め」と、「落穂の定め」の本質は共通しているのだ。

つまり、「安息日」の本質とは、

社会的立場の弱い人たちを、思いやりなさい。
そして自分たちも、かつてはエジプトで奴隷という弱い立場であり、長い間苦役させられていたことを思い起こしなさい。
その苦役から、神様は偉大な御威力をもってイスラエル人をお救いくださったことを思い起こして、仕事を休み、神様を讃えて感謝する日としなさい。

ということなのである。

しかし、イエスの時代の律法学者やファリサイ派の人々は、その本質を見失っていた。

弱者に重荷を背負わせ、自分たちは手を貸そうともしなかった。
イエスはそのことを糾弾したのである。

 

前回引用した福音書の記述の中で、イエスはファリサイ派の人々に次のとおり語っている。

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「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。

(マタイ 12:7)

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この言葉は、「ホセア書」に記された神様の御言葉である。

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わたしが喜ぶのは愛であって、いけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア書 6:6)
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神様が律法を授けられたのは、イスラエルの民が神様の御心に従って幸せになるためであって、民を縛って苦しめるためではない。

ということを、イエスは説こうとされたのだ。

この記述から、イエスが旧約聖書の内容を、すべて知り尽くしていたことは明らかである。

しかし、それは律法学者も同じはずだ。

では、イエスが説かれた教えと、律法学者が説く教えでは何が違っていたのか。

それは、「律法の本質を知った上で説いているか、形式だけを説いているか」の違いだろう。

もちろんイエスの言葉は、神様からの英知であることは言うまでもない。

 

そのようにイエスは、律法学者やファリサイ派の人たちから妨害されながらも、「伝道」を続けていった。

ただし「伝道」と言っても、外国人をユダヤ教に導こうとしていたわけではない。

キリスト教が外国に広まったのは、イエスが他界してから、ずっと後のことである。

 

イエスはあくまでも、ユダヤ教徒であるユダヤ人たちに伝道しようとしていた。

ではいったいイエスは、この伝道活動を通して何をしようとされたのだろうか。


次回はそのことについて、聖書の記述をもとに考えてみたいと思う。