今回は「安息日」について書かせていただきたいと思う。
「あんそくび」、「あんそくにち」、「あんそくじつ」、どの読み方も正しいそうだ。

天心聖教には「安息日」というものはないが、興味深かったので調べてみた。

十戒に記された安息日の定め

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教には「安息日」があり、特にユダヤ教では厳格な規定がある。
安息日は、神様がモーセに授けられた十戒の一つで、「金曜日の日没から、土曜日の日没まで、一切の仕事をしてはならない」という定めである。

旧約聖書の「出エジプト記」に、安息日を定められた神様の御言葉が次のとおおり記されている。
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安息日に心を留め、これを聖別せよ。
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

(出エジプト記 20:8~11)
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現在もイスラエルには安息日があり、軍隊や消防署などの特別な職種を除いては、一切仕事をしない。
安息日についてはいろいろな解釈があり、厳格に守っている人ばかりではないようだが、それでも、我々日本人からすると、「そこまでするのかあ」と思う内容である。


たとえば安息日には、ビルのエレベーターは自動的に各階に止まるように設定が変更される。

エレベーターのボタンを押す行為は、仕事にあたるからだ。

しかし旧約聖書には、「何をもって仕事とするか」については、あまり具体的に書かれていない。
旧約聖書に記された仕事の具体例は、畑を耕したり、刈り入れたり、商売をしたり、荷物を運び出したり、また家で火を炊くことなど、一般的に言う「仕事」と「家事」であり、何をもって仕事とするのかは細かく規定されていないのである。

さきほどのエレベーターのボタンを押すことが、なぜいけないかと言うと、機械のスイッチを入れることは、点火する行為とみなされ、安息日の禁止事項になるからだ。

いま申し上げたことは一例だが、「何が仕事で、何が仕事ではないか」を、ユダヤ教の律法学者たちは、モーセの律法に基づいて、その時々に応じて具体的に規定する必要があった。

その規定は、モーセの律法を「憲法」とするなら、憲法をもとにに制定された「法律」と言えるだろう。
「憲法」は法の根本的精神であり、「法律」以上に権威あるものだが、実際の問題を解決する場合は、直接憲法の条文をもって解決することはあまりなく、多くの場合は、法律または判例によって判断される。

しかし、判断の中心に憲法の精神をふまえていないと、法律はしだいに形骸化し、そうなれば権力者の都合が良いように解釈され、憲法の精神とはかけ離れた法律ができあがってしまう。
それと同じことがイエスの時代にも起こっていた。

十戒によって安息日が定められてから、イエスの時代まで約1300年が経っている。
その間、現代ほどではないにせよ、生活様式もいろいろと変わっていったことだろう。
したがって生活様式が変わるたびに、「この行為は仕事ですか?」という質問が祭司や律法学者に寄せられたに違いない。

モーセや預言者がいた時代であれば、神様にお伺い申しあげることができただろうけれども、イエス誕生までの約400年間は、預言者は現れていない。

その時代は、祭司や律法学者が、モーセの律法をもとに判断するしかない。
権威ある祭司や律法学者が、「これは仕事だ」、「これは仕事ではない」と判断すれば、それが前例となって、現在の「判例」と同じ意味を持つようになる。


しかし人間である以上、間違った判断もあれば、私情で判断する場合だってあっただろう。
たとえ間違った判断でも、権威ある律法学者の判断となれば、正す人がいないまま、正しいこととして後世に伝わっていく。


それが重なり、イエスの時代には、モーセの律法に基づく正しい教えだけでなく、律法の精神を失った形骸化した教えが混在していたのである。

 

安息日についてのイエスの言葉

当時、律法の解釈の違いからいくつかの派があったが、主流はファリサイ派だったため、イエスはファリサイ派と論争することとなった。
そのなかで、イエスが「安息日」について律法学者に説かれた場面が、マタイの福音書に次のとおり記されている。

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そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。
弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
そこで、イエスは言われた。

「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。


すると、片手の萎えた人がいた。

人々はイエスを訴えようと思って、

「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」

と尋ねた。
そこで、イエスは言われた。

「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。

伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
(マタイ 12:1~13)
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イエスの弟子たちは安息日に麦の穂を積んで食べ、

イエスは安息日に病人を癒やされた。

それを見たファリサイ派の人々は、それを仕事ととらえ、安息日を汚す行為だと主張した。

 

それに対してイエスは、旧約聖書の記述を示されて、安息日の本質をもとに説かれたのである。

では、安息日の本質とは何か。

何のために定められたのだろうか。
次回は、イエスのお言葉と旧約聖書の記述をもとに、

「何のために安息日が定められたのか」

ということについて考えてみたいと思う。