今回も、前回に続いて約束の地「カナンの地」での戦いについて書かせていただきたいと思う。

前回、「モアブ人とアンモン人との戦い」、「エリコの戦い」について書かせていただいたが、この2つの戦いは「神の戦い」だった。

しかし旧約聖書に記された戦いは「神の戦い」ばかりではなく、単に利権を争って起こした「人間の戦い」もある。

それは、我々が思っている戦争と本質は変わらないので、今回のテーマからは外したい。
今回のテーマは「神の戦い」である。

その「神の戦い」の一つ、「約束の地カナンでの戦い」について今回は掘り下げてみたい。

 

約束の地カナンでの戦い


カナン地方の戦いとは、イスラエル民族が約束の地カナンに移住するときの、「先住民族との戦い」であり、前回書かせていただいた「エリコの戦い」も、その一つである。

実は、この戦いの700年ほど前に、神様はこのことをアブラハムに予言なさっておられる。
創世記に、次のとおり記されている。。
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日が沈みかけたころ、アブラム(後のアブラハム)は深い眠りに襲われた。
すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。
主はアブラムに言われた。
「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。

しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。

その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。

あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。

ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。

それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」
(創世記15:12-16)
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神様の予言どおり、アブラハムの孫であるヤコブ(イスラエル)と一族70人は、エジプトに移住し、年月とともに増え広がって一つの民族となった。
エジプトのファラオ(王)はそれを恐れ、イスラエル民族を奴隷としてしいたげた。
民の苦しみの声を聞かれた神様は、モーセを遣わして大いなる奇蹟をもってエジプトから導き出され、約束の地カナンに導かれた。

その記録が、「出エジプト記」である。

話は少しそれるが、神様はアブラハムに、
「ここ(カナンの地)に戻ってくるのは、四代目の者たちである」
とおっしゃっておられる。
しかしエジプトに住んだ期間は430年、エジプトを出てからカナンに入るまで40年、合計470年かかっている。
普通なら15代くらいかかる年数だが、「ここに戻ってくるのは、四代目の者たちである」と神様は仰せになっておられる。
そのことについて調べたところ、聖書の原文は「4代目」ではなく「4生涯」という意味らしい。
創世記(6:3)に、神様は人の一生を120年と定められたと記されている。
よって「4生涯」とは480年間のことであり、ほぼ一致する、というのだ。

 

アモリ人の罪

さて、本題に戻ろう。
カナン地方に入るまで480年待たなければならない理由について神様は、
「それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである」
と仰せられている。
聖絶されるに至るまでには、まだ罪が満ちていない、ということなのだ。
したがってアモリ人が悔い改めていたら、聖書の歴史は変わっていたかも知れない。
しかし、神様はその可能性がないこともご存知で、この予言をなされたと拝察申し上げるのである。


ではそのアモリ人の罪とは何か?

聖書の中における因果関係は、短期間で現れる場合もあれば、百年・千年のスパンで現れる場合もあるので、その箇所だけを読むと因果関係が分からずに、「なぜ?」と思うことも少なくない。

しかし聖書全体でみると、「因縁の法則」は厳格に現れているのである。

まず、「アモリ人とは何か」について、旧約聖書から探ってみよう。

イスラエル民族の始祖アブラハムは、紀元前2000年頃、つまり今から約4000年前の人だが、そのアブラハムからさらに10代前の先祖が、「ノアの方舟」で知られるノアである。

ノアには、セム、ハム、ヤフェトという3人の息子がいて、セムの子孫がアブラハムである。
セムとヤフェトは、ノアの心にかなった息子だったが、もう一人の息子ハムは、父ノアの心にかなわず、父の怒りを受けて兄たちの奴隷として仕えるように命じられた。


そのハムにカナンという息子がおり、そのカナンの子孫たちが、約束の地の先住民族となった。
そのカナン人の中でも「アモリ人」は、勢力を持つ民族であり、神様が「アモリ人の罪」と仰せになられたのは、それらの民族を総称されてのことと拝察申し上げるのである。

出エジプト記(23:20)で、神様はモーセに、
「わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヘト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導くとき、わたしは彼らを絶やす」
と、6つの民族の名称を、はっきりと御示しになっておられる。

また「申命記(20:16)」でも、モーセは民に、この6つの民族について次のように語っている。
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あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。
ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。
それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあなたたちに教えてそれを行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである。

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ここでモーセは、この6つの民族を滅ぼし尽くさなければならない理由を、2つ挙げている。
1つ目は、「偶像の神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為の罪を罰するため」
2つ目は、「彼らのいとうべき行為の影響をイスラエルの民が受けて、イスラエルの民が神様に罪を犯すことのないようにするため」

である。


したがってこの戦いは、カナン人に対する人間的な恨みによるものでもなければ、利権争いでもない。

利権争いなら聖絶の必要はない。
この戦いは、「人間対人間」の戦いではなく、

カナン人の罪に対する「神の裁き」であり、イスラエル民族に対する「神の救い」だった。
すなわち「神の戦い」だったのだ。

 

ただ、実際は、イスラエルの民は、カナン人たちを約束の地から完全に追い払うことをしなかった。妥協したのである。

それが後に大きな禍いとなり、イスラエル王国の崩壊につながってしまう。

偶像の神々へのいとうべき行為とその罪

さて、それでは、神様に聖絶されるような、「いとうべき行為」とは何だったのか?
どのような罪をアモリ人たちは犯したのか。

もちろん罪の全貌は、神様だけが御存じのことだが、聖書から知ることができる罪は、「偶像崇拝の罪」である。

しかしそれは、「偶像を拝む」ということにとどまらない。


彼らの神々に祈りをささげるとき、子供、特に赤ん坊を生きたまま台に乗せて火をつける。
当然子供は泣き叫ぶ。
その声をかき消すように太鼓を叩き、我が子が死ぬのを待って生贄にささげる。
そのような悪魔の儀式と呼べるようなことが、代々行われていたのである。
また神殿娼婦や神殿男娼がいて、性的な儀式も行われていた。
そのことからして、他にも数々の罪を犯していたことが想像できるのである。

神様が聖絶を命じられたのは、そのような「カナン人の罪」のゆえであり、モーセは「申命記」の中で、イスラエルの民に次のように諭されている。
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あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。
この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。

(中略)
またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである。
あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。

あなたはかたくなな民である。
あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。

(申命記9:4-7)

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とイスラエルの民を戒められている。

 

神の裁きによる「聖絶」

「聖絶」とは、一人残らず滅ぼし尽くすことを言うが、聖書の「聖絶」の記述に抵抗を感じる人も少なくないと思う。
しかし、聖絶の記述は「戦い」だけではない。
「ノアの方舟」のお話では、ノアの家族以外のすべての人間が聖絶された。

人間だけではない。

一つのつがい残して、すべての動物を洪水によって聖絶されたのだ。

この「ノアの方舟」のお話は、聖書の中の最大の聖絶と言えると思う。

 

この洪水のあとに神様はノアとその子孫に、「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」と契約を立てられた。

 

また、「ソドムとゴモラ」のお話では、その町に住んでいたロトの家族以外すべての人々が聖絶され、「出エジプト記」では海が割れた奇蹟によって、エジプト軍は全滅させられた。
それらはすべて、神様による聖絶であり、神の裁きであった。

神様御自ら裁かれるのか、人を使われて裁かれるのか。

その違いはあるが、「神による裁き」という本質は同じである。

これらの「聖絶」の記述を無視して、旧約聖書を読み進めることはできない。
それは、旧約聖書に記された神様の御言葉を無視することになるからである。

旧約聖書に記された神様の御言葉を無視することは、旧約聖書をもとに説かれたイエスの言葉も無視することになる。

 

さらに申し上げるなら、キリスト教の経典である「旧約聖書」と「新約聖書」の中に、神様の御心とは違う教えが数多く記されてあるならば、

神様が天心聖教の初代様に下された、

「キリスト教を父とし、その方(ほう)の教えを母として世界を救われよ」

との御神示の意味も、理解できなくなってしまうのである。

聖書が人間が書いた書物である以上、間違いが全く無いとは言わない。
しかし、聖書に記された神様の御言葉は一貫していることは確かである。

聖書に記された神様の御言葉を無視したら、もはや聖書を学ぶ意味すらなくなってしまう。

聖書を読んで理解できない箇所は確かにあるが、それを無視したり、探求せずに都合よく解釈するのではなく、分からないなら、時間をかけてでも、分かるまで探求していく姿勢が必要だと思うのである。

それは天心聖教徒の我々が、初代様の御諭しを学ぶときも同じだと思う。

次回は、天心聖教の初代様のお諭しから、今回のテーマを探求して、この項を終わりたいと思う。