今回から3回にわたり、旧約聖書に記された約束の地、カナンの地での戦いの意味について書かせていただきたいと思う。


我々天心聖教徒も、聖書に記された神様と人間との歴史から、神様に対する人間のあり方を学ぶことはとても大切であると、島田晴行先生は説かれていらっしゃる。
聖書の時代と現代では、文化や世界情勢はもちろん違うが、聖書を読めば読むほど、神様の御心は、時代を超えて一貫しておられることを感じるのだ。

 

しかし疑問に思うこともある。

 

神様の御命令による戦い

旧約聖書に記された「神様の御命令による戦い」である。

 

天心聖教の初代教祖 島田晴一先生は、

「神様は戦争は大嫌いである」

とお諭しくださっている。

 

しかし聖書には、神様の御命令による戦いの記述がいくつもあるのだ。

その戦いは、我々が思う「戦争」とは何か違うのだろうか?

 

我々人間には、神様の御心のすべてを理解することはできないが、聖書の記述と初代様の教えから拝察申し上げ、考えてみたいと思う。
 

今回は引用も多くなるので、何回かに分けて書かせていただきたい。

ヨシャファト王と、モアブ人・アンモン人との戦い

旧約聖書「歴代誌下」に、ヨシャファトという、南ユダ王国の第4代の王様が登場する。

信仰のあつい善い王様だった。

あるとき、モアブ人とアンモン人が大軍をもってヨシャファト王に戦いを挑んできた。
そのとき南ユダ王国には、この大軍を迎え撃つ力はなく、ヨシャファト王は神に祈るために、すべての民に断食を呼びかけ、民は神様のもとに集まってきた。


ヨシャファト王は、神殿の庭の前に集まった会衆の中に立ち、主に祈った。
「……御覧のように、今彼らはわたしたちに報いて、あなたがわたしたちにお与えになったこの土地から、わたしたちを追い出そうと攻めて来たのです。

わたしたちの神よ、彼らをお裁きにならないのですか。

わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。」

モアブ人とアンモン人は、アブラハムの甥ロトの子孫である。
したがって先祖をさかのぼれば、イスラエル人とは遠い親戚にあたる。


出エジプト記で、モーセが率いる何十万人もの民が約束の地へ向かう道中、モアブ人とアンモン人の土地を通ろうとしたが、その土地は神様がこれらの民に与えられた地であるために、神様はイスラエルの民がそこを通ることをお許しにならなかった。
そのためモーセは、神様の御命令どおり、その土地を避け、大きく迂回したのである。

そのような歴史があるにもかかわらず、モアブ人とアンモン人は、ヨシャファト王に戦いを挑み、神様がイスラエル民族にお与えになられた地から、大軍をもって追い出そうとしている。
そのような彼らを、どうかお裁きください。
と、ヨシャファト王は、主に祈っているのだ。

すると、その場にいた、ヤハジエルという人に主の霊がのぞんで語った。
「すべてのユダよ、エルサレムの住民とヨシャファト王よ、よく聞け。
主はあなたたちにこう言われる。

『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。

これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。

明日敵に向かって攻め下れ。(中略)
そのときあなたたちが戦う必要はない。

堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。』」
と、神様の御言葉を告げたのである。

すると神様のお言葉どおり、モアブ人とアンモン人は破れた。

なんと彼らは味方同士で戦い合って自滅し、生き残った兵は一人もいなかったのだ。

神様が「これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである」と仰せになられたとおり
「人間の戦い」ではなく、まさに「神の戦い」だった

 

エリコの戦い

 

もう一つ例をあげてみたい。
神様は、モーセに十戒を授けられるとき、約束の地に入るときになすべきことを、次のとおりお告げになられた。
~~~~~~~~~~
見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。
あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。
彼はあなたたちの背きを赦さないであろう。
彼はわたしの名を帯びているからである。
しかし、もしあなたが彼の声に聞き従い、わたしの語ることをすべて行うならば、わたしはあなたの敵に敵対し、仇に仇を報いる。
わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをアモリ人、ヘト人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導くとき、わたしは彼らを絶やす。

(出エジプト記 23:20)

~~~~~~~~~~
とお告げになられた。


それから何十年も経過した後に、モーセの後継者であるヨシュアが、民を率いてヨルダン川を渡り、約束の地に入った。
神様の御言葉通りに行うと、あふれんばかりに流れているヨルダン川の水が、はるか上流で壁のように立ち上って堰き止められ、民たちは川底を歩いて渡った。

出エジプト記の紅海が割れた奇蹟と同じような奇蹟が起こったのだ。

その後、ヨシュア率いるイスラエル軍は、エリコという、城壁に囲まれた町を攻め落とすために進んでいくと、ヨシュアの前方に、抜身の剣(抜いた状態の剣)を手にした男が立っていた。
ヨシュアが、味方か敵かをたずねると、「わたしは主の軍の将軍である」と答えたので、ヨシュアはひれ伏した。
神様の御使いだったのである。
主の軍の将軍は、

「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」

とヨシュアに命じた。


ヨシュアが御使いの言葉に聞き従うと、主はヨシュアに仰せになられた。
「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。

兵士は皆、町の周りを回りなさい。

町を一周し、それを六日間続けなさい。

七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。

七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。
彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、釋(とき)の声をあげなさい。

町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」
と命じられたのである。

なぜ、エリコの町のまわりを、6日間続けて毎日一周ずつまわるのか?
なぜ、7日目に7周するのか?

なぜ、角笛を吹き鳴らし、ときの声をあげるのか?
その理由は分からない。

分からなくてもいいのだ。
神様を畏れ敬い、神様の御言葉に忠実に従うこと。
それが、ヨシュアと民のなすべきことであった。

ヨシュアは神様のお告げどおりに軍に指示をし、民はその指示通り実行して、ときの声をあげた。

すると、街を囲む城壁は崩れ落ち、イスラエル軍はそこから町に突入して、エリコの町を占領したのである。

先ほどのヨシャファト王の戦い、及びエリコの戦いに共通するのは、人間業(にんげんわざ)ではないということだ。
神様御自ら戦われた「神の戦い」だったのである。


「神の戦い」

それは何を意味するのだろうか?
次回はそのことについて書かせていただきたいと思う。