前回は、「何のために信仰をするのか?」をテーマに、

信仰は、神様に護られて幸福になるための信仰であり、精神修養や道徳とは違う。

ということを、初代様のお諭しをもとに書かせていただいた。

 

神様の御教えは、信仰を持たない人でも得心できる教えが多いが、そればかりではなく、人間の判断とは全く違う場合もある。

そこで今回は、「神様の御心と人間事の判断の違い」について、具体例をあげて書かせて頂きたいと思う。

神様に一切をお任せする

初代様は、戦後間もない開教当時のご体験を、お諭しの中で次のようにお話くださっている。
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開教当時に入会者が来て食べる米がないと聞けば、米の五升に金の五百円ぐらいはやりたくなって、その当時は時々やったことがありますが、やった人は不思議にどれもこれも救われなかったのであります。
その理由は、こんな些細なことでも、神事というものは、神の救いを無視するようなことになれば、神は『汝が救えるものなら救ってみよ』と手掛けなくなるからであります。
私の方では困っている家庭を、たとえ五日でも救ってあげるつもりで物を与えることは、きっと神様もお喜びなさるとばっかり思っていましたところ、このように矛盾が起こるので、不思議だなあと思って研究を重ねていきますと、私たちの浅はかな考えと神様とでは大きなズレがあることが分かり、私が金や物を与えれば、もらった信者は私を拝んだり頼ったりして、神様の方へ心がいかなくなり、物をやらなくなればもう来なくなるという具合に、心からの信仰につかないから、神様の方では救いようがないのであります。
それが神様によって恵まれた者は、心から信仰を持つから救い上げられる、ということを私は悟らせていただきましたと同時に、また人間同士でたとえ兄弟の仲でも、とてもお互いを救いきれるものではありません。
それを悟ってからは、一切神様にお任せということになりますと、ご承知の通り片っ端から救い上げられているのであります。
この点が社会人同士と、神事とではまるっきり違うのです。

(初代様お諭し「この宇宙間は神と悪魔との対立」より)
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と説かれた。

生活に困窮している人がおり、自分に金銭的余裕があるなら、いくばくかのお金を渡して生活の足しにしてほしい、と思うのは人情である。
しかし、神事において、それはしてはいけないと教えられている。

なぜなら、神様が「汝が救えるものなら救ってみよ」と、御手をお引きになられるからである。

神事においては、神様の御救いを無視するような振る舞いは、してはいけないのである。

腹の中で泣いてお金を渡されなかった初代様

開教当時、初代様の御弟子として活躍された先生がいらっしゃった。
その先生は、熱心なキリスト教徒だったが、初代様のお話に魅了され、毎日通っているうちに、いつのまにか初代様のもとで暮らすようになり、御弟子となられた。


その先生は、群馬県で呉服屋を営んでいたが、経営は火の車だった。
ある日、その先生の奥様が初代様を訪ねてきたときのことを、初代様はご訓話で次のようにお話くださっている。


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「主人は、こちらで厄介になって幸せですが、私は子供を抱えて収入はなし、困っているんですから、主人に帰るように話して下さい」

と言ったから、私は
「奥さん、群馬県には草が沢山あるでしょう。その中でコンペイトウに似た実のなる草は毒だから、それさえ除けば、あとは何を食べても大丈夫だから、塩うでにして食べなさい。冬は草の根を食べていれば死ぬような事はない。長い事は言わないから一年間辛抱しなさい。ここの神様は実に灼かだから、決して餓死させるような事はないから安心なさい」
と言ったら、私の顔をしげしげと見つめて、世の中にはこんな薄情な人が居るかしら、と言った顔つきであったが、その時私は、千や二千の金をあげるのは痛くもかゆくもないが、ここで私が手を出せば神様が、
『その方は偉い奴じゃ、救えるものなら救ってみよ』
と仰せられて、神様に御手をひっこめられては大変だと思い、我慢して鬼になって汽車賃もあげずに、私は腹の中で泣いて帰したのである。

(初代様お諭し「組織と運営」より)

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と、その時のことを語っておられる。


すると、それから一年もたたないうちに、その先生の息子は若くして呉服屋を引き継ぎ、呉服の小売店としては日本一とうたわれる程になった。

そのように、神様の御救いを賜ることができたのである。

 

人間同士なら善しとされることでも、神様が御介在される場合は、神様の御救いを無視する振る舞いとなってしまう場合があるのだ。

人情は、もちろん大切である。

「この人を神様に救って頂きたい」と思うのも、その人のことを思う人情があるからだが、しかし、救ってくださるのはあくまで神様である。

そこを間違えてはいけないことを教えられている。


今のお話は一例だが、天心聖教の「由来」の中には、そのような神事と人間事の違いについてのお話が数々出てくる。

 

また、聖書にも、初代様のお諭しに通じるお話がいくつかある。

神様がイスラエルの兵を減らされた理由

たとえば、旧約聖書の「士師記」に、ギデオンという士師が登場する。
士師とは、イスラエルが統一王朝になる前、神様が遣わされた、部族や地域を納めるリーダーであり、預言者である。
 

その士師の一人に、ギデオンという人がいた。

イスラエル軍がミディアン軍との戦いに出陣したとき、ギデオン率いる兵3万2千人が、朝早くから陣を敷いていた。
 

その時、主の御言葉がギデオンに下った。

「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。
渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いをかち取ったと言うであろう。
それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。
恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」


こうして民の中から2万2千人が帰り、1万人が残った。
すると、主はギデオンに言われた。

「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。
そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。」


ギデオンは主の御言葉どおり、民を連れて水辺に下った。

するとまた、主は言われた。

「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」

犬のようにかがみ、舌で水を飲んだ者は帰され、水を手にすくって飲んだ者だけを神様はお選びになられたのである。

勇気と品格をあわせ持つ者だけを、神様はお選びになられたのかも知れない。

 

その結果、神様の御心にかなった兵は、たった300人だった。
3万2千人の兵の中で、神様がお選びになられた兵は1%にも満たなかったのである。


それに比べ、ミディアン人の兵力はイナゴのように多く、数え切れないほどだった。
しかし、この戦いは、イスラエル軍が大勝利を納めたのである。

この時代のイスラエルの戦いは、約束の地カナンに入る戦いだったが、それだけでなく、悪を行い続けた諸民族に対する、神の御裁きでもあった。
(そのことについては、改めて別の項で書かせていただきたいと思っている)

したがって、神の御指揮による戦いゆえに、勝敗の鍵は、イスラエルの兵力が強いか弱いか、多いか少ないか、ではない。

勝敗を決める鍵は、

「イスラエルの民が、神様の御言葉に忠実であるかどうか」

その一点だけだった。

 

勝てばそれでいい、というのではなく、神様の御力による勝利を、イスラエルの民が深く悟って神様を恐れ敬い、民の信仰が深まることに、とても重要な意味があったのだ。

「自分たちの力で勝った亅とおごり高ぶることがないように、神様は兵力を100分の1に減らされたのである。

このお話は、先ほどの初代様の教えに通じている。

 

そのように神様は、人知を以って計り知ることができない御方でいらっしゃるゆえに、

信仰で大切なことはまず、理屈抜きに神様のお言葉を受け入れることであり、そうすれば、神様はその真理を、体験を通して悟らせてくださるのである。