今回は、

「信仰とは何のためにするのか」

ということをテーマに、書かせて頂きたいと思う。


神様に護られて幸福になるための信仰

初代様は、青年部員へのご指導会で、

信仰とは何のためにするのかについて、次のとおりお諭しくださっている。

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君たちが信仰してゆく上で一番肝心なことは、自分たちは何のために信仰するのか、これだね。

信仰とは何のためにするのか、それは我がためにする。
自分のためにする、これなんだ。
そこで我が身のためということは、どういうことか。
人物を磨くということだけだったら、いろいろな経験から割り出した書物もある。
またそれだけだったら別にこういう所で、手を合わせて祝詞を上げることはない。
人物を磨くということは、信仰の中に含まれていることで、問題は要するに神様に護られて幸福になるための信仰である。
自分はこれから社会において、幸福な良い暮らしをするために信仰する。

幸福な暮らしとなると、それは精神修養とは違うし、また信仰には自分を磨くということは、すでに含まれてしまっているんだ。

だから信仰とはこれから良い暮らしをしてゆく、社会に出て押しも押されもせぬ人物になるためである。
(「初代様を囲んで(青年部員へのご指導会)」より)
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初代様は、

神様に護られて幸福になるための信仰である

と、若き信徒たちに諭された。

 

天心聖教における信仰は、

偉大な御威力をもって御救いくださる、宇宙絶対の神様の支配下に入り、幸福の人生を歩むための信仰である。


「信仰」と「道徳・修養」との違い
 

したがって、修養や道徳とは違う。

 

世の中には、人間が持つ能力・経験だけで判断できないことや、解決のつかないことがたくさんある。

人間がいくら修行を積んでも、未来を正確に見通すことはできないし、自分の力で因縁や宿命を変えることはできない。


人間の力には限界がある。

だから、この大宇宙を御支配なさっておられる偉大な神様におすがりし、神様の御言葉に従って生きる。

それが信仰なのだ。


もちろん、人物を磨く修行は必要だが、初代様がお諭しくださっておられる通り、神様の御言葉に従って生きる信仰の中に、人物を磨く修行は、すでに含まれているのである。

 

神事と人間事

 

その一つとして、信仰者は「神の聖旨」を日々心がけて生きている。

それは、教えを聞いて、道徳的に素晴らしいと思ったから、そうしているのではない。

自分を御守護くださっておられる宇宙絶対の神様が、初代様を通して、「信仰者はこのように生きよ」と仰せになられたからである。

 

「この教えは素晴らしいから、実行しよう」

「この教えは自分の考えとは少し違うから、実行するのはやめよう」

というのでは信仰にならない。

 

人間事ならば、それでもいいかも知れないが、神事は違う。

神様の御言葉をそのまま受け入れ、その御言葉に従って生きようとするのが信仰なのだ。

 

神様の御教えを聞いただけでは、その意味を深く悟ることが出来ない場合も多いが、たとえその時は理解できなくても、心掛けていくうちに、体験を通してその意味を、神様が悟らせてくださるのである。

したがって信仰において、まず大切なことは、神様の御言葉に従って生きようとする「意志亅なのだ。

 

そのように、神様への信仰は、修養や道徳とは違う。

言い換えれば、「神事」と「人間事」の違いである。

 

神様の教えは真理であり、信仰していない人でも得心がゆく教えが多いが、そればかりではない。

神様を中心とした「神事としての判断」と、人間を中心とした「一般的な道徳観念」とでは、違った判断になる場合がある。

 

次回はそのことについて、いくつかの例をあげて書かせて頂きたいと思う。