前回は、旧約聖書の「申命記」について書かせていただいた。


「申命記」とは、モーセが書いた最後の書であり、神様から授かった教えと戒めを、後世に残すために記した、「モーセの遺言書」とも言える書である。

 

モーセは「申命記」を書き終えると、それを契約の箱(十戒を納めている箱)の傍(かたわ)らに置くように命じ、今後、7年ごとにイスラエル民族全員を集めて読み聞かせるように命じた。

 

さらに、モーセにとってもう一つ気がかりなことは、「後継者」だった。

そこで今回は、「モーセと後継者」について、書かせていただきたいと思う。

後継者を神様に願ったモーセ

民数記には、次の通り記されている。
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モーセは主に言った。
「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

(民数記27:15-17)
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モーセは自分に代わるイスラエルの新しいリーダーを現してくださるように、神様に祈ったのである。

すると、


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主はモーセに言われた。
「霊に満たされた人、ヌンの子ヨシュアを選んで、手を彼の上に置き、祭司エルアザルと共同体全体の前に立たせて、彼らの見ている前で職に任じなさい。
あなたの権威を彼に分け与え、イスラエルの人々の共同体全体を彼に従わせなさい。
彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために、主の御前でウリムによる判断を求めねばならない。

ヨシュアとイスラエルのすべての人々、つまり共同体全体は、エルアザルの命令に従って出陣し、また引き揚げねばならない。」
(民数記27:18-21)
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神様は、モーセの後継者として、ヨシュアを任命された。

 

神様の配剤
 

ただここで、見逃してはならないことがある。

それは、神様はヨシュアを後継者に任命されると同時に、祭司エルアザルの役割をも、お命じになられた、ということである。


イスラエルの共同体全体はヨシュアに従って進むが、ヨシュアの独断によってではない。

祭司エルアザルが神様の御前において、ウリム(※啓示を賜るために祭司が用いた用具)によって神様の御心を仰ぐように命じられた。

そしてヨシュアと共同体は、エルアザルの命令で出陣し、エルアザルの命令で引き揚げねばならない。

と神様はお命じになられたのである。

したがって、ヨシュアと祭司エルアザルとが、連携して、神様からの使命を果たすようにお命じになられたのである

同じことがモーセにも言える。
モーセの場合も、神様が使命を与えられたのはモーセだけではなかった。
出エジプト記に、次のとおり記されている。

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主はモーセに言われた。
「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。」

(出エジプト記7:1~2)
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神様はモーセだけではなく、モーセの兄アロンにも使命をお与えになられた。
モーセはファラオに対する神の代理として、そしてアロンはモーセの預言者として、それぞれが連携して使命を果たすようにお命じになられたのである。

すべては、神様による御配剤であった。

預言者が語った言葉は必ず実現する

また、モーセは、イスラエルの民の間に、今後「預言者」が現れることを告げた。

ヨシュアもその一人だが、モーセは「預言者」について、次のように民に語った。
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あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。

あなたたちは彼に聞き従わねばならない。
(中略)
主はそのときわたしに言われた。

(中略)わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。

彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。
彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追求する。
ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」


あなたは心の中で、
「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」
と言うであろう。
その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。
預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。

(申命記18-22)
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とモーセは語った。


神様は、モーセ亡き後に預言者を立てられることをお約束され、その言葉に聞き従うように命じられたのである。

しかし、預言者の言葉が、本当に神様の御言葉なのか、それとも自分の考えを語っているだけなのか、普通の人には見分けがつかない。


そこでモーセは、
「その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。

預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。」
と、その見分け方を諭されたのである。

 

実際に、モーセの亡き後、イスラエルの歴史において、数々の預言者が現れた。

その中には、周辺諸国の偶像の預言者や、王様がお気に召すことしか言わないお抱え預言者もいたが、真の預言者は何人も現れ、その言葉は必ず実現した。

そしてその説くところは、一貫してモーセの教えに通じていた。

 

イスラエルの歴史そのものが尊い教科書

また、モーセは「申命記」で、イスラエルの民に次のとおり語っている。
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わたしはあなたがかたくなで背く者であることを知っている。
わたしが今日、まだ共に生きているときでさえ、あなたたちは主に背いている。
わたしが死んだ後は、なおさらであろう。

(申命記 31:27)
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その後イスラエル民族は、モーセの言葉通りの歴史を歩むことになる。

王朝時代には数多くの預言者が現れ、神様の御言葉を王や人々に告げ、正しい道に戻そうとした。

しかし偶像崇拝に深く染まった王国は、悔い改めることなく、神の裁きを受けてとうとう滅亡してしまう。

その後、エルサレムへの帰還は許されたものの、他国の支配下に置かれ続けた。

そしてそれから約400年後に、イエスが誕生するのである。

 

前回申し上げたとおり、旧約聖書の歴史は、決してイスラエル民族の英雄物語ではない。

民族にとって都合の良いことだけでなく、不都合な歴史も数多く記されている。

しかし、そのような歴史も含め、壮大なイスラエルの歴史そのものが、

「神様とは、どのような御方でいらっしゃるのか」

ということを教えてくれる、尊い教科書なのだ。

 

もしも、

「旧約聖書から、あなたは何を最も学んだか?」

と問われたら、私なら

「幸福を求めるなら、神様の御言葉にひたすら忠実であれ。ということを学んだ」

と答えると思う。