今回は、「想うことは実現する」という教えについて書かせていただきたいと思う。
天心聖教の「11日の神の聖旨」に、
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善きことのみ想い悪しきこと思わぬ事
想う事は実現する。笑って暮らせば良き事来(きた)る。泣いて暮らせば泣き事来(きた)る。貧想を続ければ貧来(きた)る。富む心を続ければ必ず富来(きた)る。
喜べば喜び事来(きた)りて、喜び同志が集り、互いに幸福を分け合うことが実現する。
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と諭されている。
想うことは実現する。だから善きことのみ想い、悪しきことを思ってはならない。
という教えである。
ただ、「よいことだけ想っていれば、努力しなくても良い結果になる」
という「都合の良いことを想え」という意味ではもちろんない。
「よきこと」とは、「善きこと」と書く。
善きことのみ想う
この聖旨について、第二世教主 島田晴行先生は、次のようにお説きくださった。
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善きことのみ想い、これは幸福になることのみに憧れよという意味であり、悪しきこと思うなよ、とは、不幸になることを考えてはならないという御諭しである。
要は取り越し苦労するのではなく、取り越し喜びを持って生きよという意味である。
(中略)
ここで諭されている善きこととは、即ち幸福であり、その幸福とは現在抱えている願望が叶うことである。
(「神の聖旨講座 第1回」より)
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とお諭しくださっている。
「善きこと」とは、「幸福」のことである。
そしてその「幸福」とは、「現在抱えている願望が叶うこと」である。
したがって、「善きことのみ想い、悪しきこと思わぬ事」とは、
願望が叶って幸福になることのみ想い、
その幸福に憧れ、不幸になることを考えてはならない。
取り越し苦労をせず、取り越し喜びを持って生きよ。
という教えなのである。
なぜなら、想うことは実現するからだ。
「人事を尽くす」とは
先ほどのお諭しに続き、島田晴行先生は次のようにお説きくださっている。
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所が人間は現在抱えている願望が叶うことを切望しながら、同時に失敗を計算に入れて心配し、失敗した場合にはどうするかと散々頭を使う場合が多い。(中略)
そうではなく、願望が叶うこと、即ち成功に憧れるのみで生きよと教えられているのである。
何故なら、成功を求めながら、失敗の場合はどうするかと散々頭を使うなら、その分すべて成功するためにはどうするかに頭を使えということである。
初代教祖様がよく「人事を尽して御神助を待つ」と、信仰者の生き方を説かれておられたが、人事を尽くすとは最大の努力をするということである。
にもかかわらず、成功を求めながら、一方では失敗を考えるのでは、知らず知らずの内に失敗に憧れる生き方に変化してしまう。
想うことは実現するのである。(中略)
そのようなことではなく、善きことのみに憧れるのである。
それが善きことのみ想いである。
そしてその想いが、想念にまで発展する自分でなくてはならない。
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と説かれている。
誰もが成功を願い、失敗を願いながら努力する人はいない。
しかし人間はつい、「失敗したらどうしよう」と考えてしまう。
「人事を尽くす」とは「最大の努力をすること」だが、「失敗したらどうしよう・・・」と不安に思い、悪しき考えに頭を使っていたら、最大の努力はできない。
憧れを「想念」に発展させ、
善きことのみ想い、自分が持てるすべての力を、成功に向けて集中させることが
「人事を尽くす」ということなのだ。
「そうは言っても、失敗のことも考えておかないと、失敗した時に対応できなくなってしまう」
とおっしゃる方もおられると思う。
確かにおっしゃるとおり、「このプロジェクトに失敗すれば、会社にとって大きな痛手となる」
といった大計画の場合は特に、念には念を入れ、市場調査などを詳しく行い、緻密な計画を立てるべきは当然である。
そして検討の結果、成功の目処がまつたく立たない計画は、無理に実行すべきではないだろう。
たとえそれが小さなプロジェクトだったとしても、前もって予想しうる失敗の原因は、事前に取り除いておくべきである。
しかし、そういった緻密な事前準備は、大局において成功するための戦略の一つであって、「失敗したらどうしよう・・・」という、消極的な不安感からではない。
「なんとしても会社を存続させ、発展させる」、あるいは「この事業をなんとしても成功させる」
という強い想いと思慮深さによる、成功のための「徹底した準備」なのである。
島田晴行先生は昔、物事を進めるにあたっては、
「石橋を叩いて、戦車を通してから渡れ」とお諭しくださったことがあった。
それは、「成功に向けて徹底した準備をしなさい」ということであり、「人事を尽くす」ための教えなのである。
それでも失敗したときは、どうしたらよいか
では、それでも失敗したときは、どうしたらよいのか。
島田晴行先生は、同じお諭しで、
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しかし、物事には常に成功と失敗が表裏一体を成しているものである。
だから失敗の場合のことも考えてしまうのだが、それは本当の生き方ではない。
万一失敗したときは、そこで初めて失敗を受け止め、短時間にして失敗の事態から脱却する方法を見いだせる自分であるべきなのだ。
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と説かれている。
人間である以上、力及ばずに失敗することもある。
島田晴行先生は、
「万一失敗したときには、そこで初めて失敗を受け止めて、短時間にして失敗の事態から脱却する方法を見いだせる自分であるべきなのだ」
と諭されている。
つまり、
「失敗した時に初めて、その失敗を受け止め、短時間のうちに失敗から脱却する方法を見いだせる自分を造れ」
ということなのである。
もしも失敗したときは、
「この失敗の経験を生かし、次は必ず成功してみせる」
と、そこでも善きことのみ想い、いち早く失敗から脱却して、次の成功に繋げられる。
そういう自分を造れ、ということなのだ。
善きことのみ思える人は、万一失敗したときでも善きことのみを想う。
結局、「善きことのみ思える人」というのは、何が起ころうとも善きことのみ想える人なのである。
善きことのみ想うとは、憧れ続けること
さらに続いて、島田晴行先生は、次の通り説かれていらっしゃる。
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想念とは自己が望む事への強い憧れであり、それは成就された時の大きな歓喜への憧れである。
心の中にその歓喜がみなぎってこそ、努力の道が開かれてゆく。
努力という実行力を支えるものは勇気であるし、加えて我々にとっては神への祈りである。
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と説かれた。
善きことのみ想う、その「想念」とは、
「望みが実現することへの強い憧れ」であり、
「成就された時に味わう大きな喜びへの憧れ」なのだ。
よって、「善きことのみ想い続ける」とは、「憧れ続ける」ことである。
その憧れがあるからこそ勇気が生まれ、実行力(努力)への道が開かれていく。
神様への祈りと努力
加えて、我々信仰者にとって、神様への「祈り」が、実行力(努力)を支える大きな力となる。
神様に祈るということは、自分も努力することを、神様にお誓い申し上げることでもある。
そしてその努力に対し、「神様は必ず御守護くださる」という信仰信念が、実行力(努力)を支える大きな力となるのだ。
そのように「宗教的信仰」とは、神様にお願いして願いを叶えていただくだけでなく、
信仰信念を養って、神様とともに、力強い人生を歩むための教えなのである。