今回は、「神主主義」ということについて書かせていただきたいと思う。


第二世教主 島田晴行先生がお若き頃、役員の方から

「民主主義でやってゆきましょう」

という手紙を受け取られ、そこで島田晴行先生は、
「私がやる以上、民主主義ではやりません。さりとて専制君主主義もとりません。

神主主義をとります」

と返信された。

「神主主義」とはその時の言葉である。


そこで今回は、島田晴行先生が説かれた「神主主義」と、一般的な「民主主義」ではどう違うのか、ということをテーマに考えてみたいと思う。

「神主主義」とは、「神様を主として考える」ということだが、この言葉はけっして特別な言葉ではない。

神様のご降臨によって開かれた宗教において「神主主義」は当然であり、キリスト教徒の方なら、その言葉を聞かれただけで、意味をすぐに理解されると思う。
なぜなら、聖書はまさに「神主主義」の書だからである。
 

神主主義と民主主義

私自身、民主主義は良いと思っているし、民主主義国家の日本に生まれたことを感謝している。

しかしだからと言って、「民主主義なら、国民は必ず幸せになれる」と思っている訳ではない。

民主主義国家でも独裁政権は誕生するし、数々の戦争を起こしてきた。
 

逆に、専制君主制の国であっても、君主が公正な正義のもとに善政を行い、国が豊かで争いもなく、国民が平和で幸福に暮らしているのであれば、それは素晴らしい国と言えるだろう。
ただ専制君主制の場合は、新しい君主が暴君になれば国情が一変する。

そう考えると民主主義の方が良いと、個人的には思っている。

しかし、国の行く末は、政治形態だけで決まるものではない。
伝統や文化、家庭教育などを含め、国民一人一人の心に宿る思想が、国の未来を大きく左右する。国家だけではない。団体でも家族でも「ルールを決めれば治まる」というものではなく、そのルールを支える一人ひとりの心に宿る思想が重要なのだ。
その思想の中心に神様の御心を置く、ということが「神主主義」なのである。

島田晴行先生は、神主主義について、次のようにお諭しくださっている。
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みんなが知恵をしぼりながら結論というものに到達してゆかなければならない。
その結論に到達したときに、“ああ、これでいい”と言うのでなくして、もう一回“神様に対して、これで恥ずることはないか”と問い正し“恥ずることはない”と判断したときに初めて実行に移してゆく。

これが神主主義というものだ。
(第二世教主様お諭し「社会人部・大学部キャップ会 教主様御指導会」より)

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みんなが知恵をしぼって考えて決めることは「民主主義」である。

しかし普通の民主主義と違うのは、神様に対して恥づることはないか?」と問いただす局面を通過して最終判断に至るところだ。
これが神主主義の思想だと説かれているのである。

神のもとにおける、人民の人民による人民のための政治

 

したがって、「神主主義」は「民主主義」に反するものではなく、「民主主義」の土台とも言える思想なのである。

また島田晴行先生は「神主主義」について次のように説かれている。
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民主主義と言いますけれども、民主主義も本当はそうなのです。
「人民の人民による人民のための政治」という有名なリンカーンの演説がありますけれども、その前に「神のもとにおいて」という言葉があるのです。

その「神のもとにおいて」という言葉が日本ではカットされてしまっている。
キリスト教徒とか、ああいう国民のほとんどがそうした信仰を持っているから、勿論リンカーンも信仰を持っていますからそういう言葉が出てくるわけです。

(第二世教主様ご訓話「役員について」より)

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と説かれた。
現在のアメリカが、実際にそのような民主主義かどうかは別にして、民主主義の根本にある思想は、本来は「神のもとにおいて」が前提なのである。
 

同じアメリカで、先程のお話に通ずることを、初代様はご訓話の中でお話くださった。

米国の憲法会議の美談

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あのアメリカが独立戦争の終わりを告げるや、米国の憲法を作るため憲法会議が開かれ、その時議論百出して紛争に紛争を重ね、容易にまとまりがつかなかった時、一人の政治家フランクリンという人が立って聖書を持ち、聖書からこの紛争を静めるにふさわしいところを読み聞かせ、彼は全員に向かって、

「我が国を建てるには、どうしても宗教的信仰の精神が第一である。ご一同が神にお祈りをしたならば、必ずや円満裡に立派な憲法がまとまりますぞ」

と言って、先に立って祈り始めたので、憲法会議がついに祈祷の会に変わってしまい、やがてお祈りが終わり再び会議が開かれた時、反対すべく反対する者もなくなり、議事もどしどし進行して、意義なし意義なしで可決確定したという具合に、たちまち円満にまとまったという話がある。

これは米国建国史における美談として、今なお伝えられている。
(初代様ご訓話「完全堅固なる家と国家は見えざる基礎にあり」より)
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と説かれている。


そのようにキリスト教国における民主主義は本来、神様のもとにおける民主主義なのだ。
「民主主義」は人間が創り出した政治形態だが、この宇宙は天地創造のときからずっと、

「神様が主の世界」であり、それは未来永劫変わることはない。


そのような「神様が主の世界」の中で、我々人間は創造された。
したがって「民主主義」や「社会主義」と言った政治的思想が生まれるはるか昔より、

我々人間が意識するしないに関わらず、この世は「神主主義」の世界なのである。


神主主義の世界とは

では具体的に、「神主主義」を根本とした「民主主義」とはどのようなものなのかを、初代様のお諭しより、探ってみたいと思う。

初代様は、次のようにお諭しくださっている。
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我々人間は、みんなの生活を満たすために働いているから、みんなから生活の保証を受けているのである。

この延長が、世界各国が貿易と称して必要に応じて交換しあって、お互いに何不自由のない豊かな生活の道が開けているのである。

これを悟ってみれば、人類社会の住む世界は、正に大なる一国である。
その王様になることは、人間に許されないことを忘れてはならない。
その国王は神である。
この真理を知らない精神文化不足の人間同士が、王様争いをするからこそ戦争が絶えないのである。
現代の世界は、ますます狭くなるばかりで、外国へ行くのが隣家へでも行く程度に短縮されるばかりでなく、月の世界への旅行も、夢より実現に移されんとしている現代であるから、このへんで世界を大なる一国家にしてしまって、その国王は、全知全能の神を祭り上げ、全世界各国より神の御心に叶った政治家を選挙して、宇宙人類福祉のための政治に目ざめてこそ、全世界の地上に絶対に揺るがぬ平和が招来するであろうが、人間同士が国王争いをしている限り、世界の至る所において理由なき闘争は、随時随所に無限に続くであろう。

(初代様ご訓話「平和論」より)
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と、初代様は説かれた。


世界の王様になることは、人間には許されていない。
その国王は神様であり、世界各国から神様の御心にかなった政治家を選挙してこそ、揺るがない平和が招来する、と初代様は説かれている。


政治家を選挙で選ぶ政治形態は、現在の「民主主義」と何も変わらない。

しかし、神の御心にかなった政治家を選挙で選ぶとなれば、神様の御心にかなった高い精神文化を世界人類の一人一人が持ってはじめて実現し得る。

何百年先か分からないが、そのような時代が到来することを心から願いたい。