先日、旧約聖書を手に取って何気なくページをめくると、「創世記」の、神様が人を創造される場面が目に止まった。

今回は、その時に思ったことを、少しだけ書かせて頂きたいと思う。

旧約聖書「創世記」には、次の通り記されている。
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神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。

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「あれ?」と思った。

ユダヤ教もキリスト教も、唯一絶対の神様だけを「神」とする、一神教である。
しかしこの場面で神様は、「我々」と仰せになっておられるのだ。

人間からすれば、「神々」ということになる。

調べてみると、キリスト教神学でも、この事については、いろいろな説があるそうだ。
例えば「三位一体説」。
「三位一体」とは、キリスト教の重要な教義の一つで、
1.父(ヤハウェ)
2.子(イエス)
3.精霊

神はこの3つの体格を持たれている、と説いている。

3つの体格とは、3神という意味ではなく、この3つの体格が一体となって神なのである、という教えである。

ただ、この「三位一体」は、イエスが説かれた教えではなく、後の神学者たちによって形成された。

 

したがってキリスト教神学において、父ヤハウェも、子イエスも、神なのである。
この三位一体説をもとに、

だから、創世記には「我々に似せて・・・」と書かれてあるのだ。

と説く神学者の方が多くいらっしゃるようである。

天心聖教の教えには、そのような教えはなく、絶対の神様は唯一であり、

モーセも、イエスも、初代様も、神様がお遣わしになられた人間であり、神様ではない。

 

しかし初代様は、宇宙絶対の神様には、御眷属の神様、つまり御家来の神様がいらっしゃることをお諭しくださっている。
したがって、我々天心聖教徒は、創世記に記された「我々」という神様の御言葉を、「神々」という意味として、字義どおり理解できる。

聖書にも、いろいろな場面で、御使いたちが、神様に遣わされる。
しかしユダヤ教やキリスト教では、「御使い」は「神」ではないので、「我々」という神様の御言葉を、「神々」と解釈することは教義上できない。

そのため、いろいろな解釈が生まれたのではないかと思う。

したがって、創世記の中で、神様が仰せになられた「我々に似せて」の「我々」とは、

宇宙絶対の神様と、御眷属の神様、つまり聖書に記されている御使いたちのことと、拝察申し上げるのである。

 

「神様の御姿」ということについては、またいつか、改めて書かせて頂きたいと思っている。