前回は、「本当の勇気とは、正しいことをすること、正しいことを守ること」
という、島田晴行先生の教えについて書かせて頂いた。

今回は、初代様のお諭しより、

「勇気は所願を成就する根本要素である」

とい教えについて、書かせて頂きたいと思う。
 

勇気は所願を成就する根本要素

初代様は、「人生勝敗の岐れ道」と題するご訓話の中で、次のとおりお諭しくださっている。
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世の中には人並以上の知恵も学問も持ちながら、ただ一つ勇気がないばかりに何事も成し得ず、人の下積みとなって終わる者がまことに多い。
実に勇気は所願を成就する根本要素である。

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と説かれている。

才能があっても、実行する勇気がなければ、何事も実現しない。

未来の結果が分からないのは、勇気がある人もない人も同じだ。

分からない未来に可能性を見出し、挑戦できる人が勇気ある人であり、

その挑戦する「勇気」が、「所願を成就する根本要素」だと、初代様は説かれているのである。

では、その勇気を養うにはどうすれば良いのか。
初代様は同じご訓話の中で、次のとおりお諭しくださっている。
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ではこの勇気を養うにはどうすれば良いか、三つある
まず第一に自信を持つこと。度胸は自信から。
その二は誠心誠意で正直であること。

誠心誠意をつくし且つ正直である人は、自分の心に恥ずることがないから、何人に向かっても恐れるところがない。

真の勇気はこのような点から養われたものが、何事にも発動していくものである。
その三は、自己の運命を切り開く決心が必要であること。

いかなる人物でも、運命とか天命とかいうものを避けようとて避けることはできない。

だが変転きわまりない禍福の内、禍の番になった時、へこたれてしまってはならぬ。

この時こそ勇敢にこれと戦い抜いて、打開する覚悟が肝心である。
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①自信を持つこと。
②誠心誠意で正直であること。
③自己の運命を切り開く決心が必要であること。

勇気を養うには、この3つが必要であると、初代様は説かれた。

この中で②の、

誠心誠意で正直」がどうして勇気につながるのか?

それが今回のテーマでもある。

心に恥づることがないときに勇気は生まれる

誠心誠意で、なおかつ正直である人は、自分の心に恥づることがない。

したがって、人に向かって恐れることがない。

そのような点から勇気は発動する、と初代様は説かれているのである。

「自分のに恥づることがない」、
あるいは、「自分の信念に恥づることがない」と言ってもいいだろう。

また信仰者であれば、「自分の信仰心に恥づることがない」と言うこともできる。
この「心に恥づることがない」ということが、勇気の源となるのである。

器用に立ち回れる人でも、うしろめたい事を続けると、不安が増していく。

(そもそも、うしろめたい事はすべきでないが・・・・・・)
逆に、たとえ器用でなくても、誠心誠意で正直であるという、そういう自分に自信を持っている人は、心に恥づることがないから、常に勇気を持って行動することができる。
したがって、誠心誠意で正直であることは、勇気の源なのである。


そして勇気は、信仰を通してさらに養われていく。
同じご訓話の中で、初代様は次のとおりお諭しくださっている。
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宗教を持てば肝っ玉が太くなる。そして勇気の発するところに希望が生じ、前途に光明が輝いて前進へ前進へと進む行路が開けて行くのである。
人間万事塞翁が馬、良いことの後は悪い、悪いことの後は良いことが来る。

幸せと禍いは常に互いに転回するものであるが、禍いや艱難は、信仰のない人を自殺させてしまうが、信仰を持つ者にとっては、この禍いや艱難が修養鍛錬の絶好の機会となって、信仰のある人は一難来るごとに勇気を百倍にしていくこととなる。
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私は長年信仰しているが、「一難来るごとに勇気百倍」というような境地には、まだまだ達していない。
しかし信仰のおかげで、いろいろなことに勇気をもって対応することができるようになった。
特に意識していたわけではなく、神様を信じるようになってから、自分を信じられるようになり、そこから自然に勇気を持てるようになったように思う。

神様を信じ、自分を信じる。
そこから生まれる勇気はとても大きいと、今あらためて感じるのである。