今回は「宗教的信仰」ということについて書かせていただきたいと思う。

前回は、「宗教は与えるもの」であり、「信仰は求めるもの」ということを、島田晴行先生の教えをもとに書かせていただいた。
そして宗教とは、神様と人間をつなぐ「接点」であると申し上げた。

しかし特定の「宗教」を持たず、心の中で神様を信じている人は、特に日本人には多いように思う。

 

信心深い日本人


日本人は昔から、「神様を信じているかどうか」は別にして、人間を超えた存在に対する畏敬の念を持っている。
「私は神様を信じない」と言う人でも、神社の境内であえてツバを吐いたりはしない。
それは心のどこかに、神様を畏れ敬う気持ちがあるからだろう。

「鰯の頭も信心から」という諺があるが、昔から日本には、神仏をはじめ、尊いと感じる存在に対して手を合わせ、拝する文化がある。

古来からの宗教の教えは奥義のように、庶民が触れることはあまりない。

お経を聞いてありがたいと思うが、意味はよく分からない。

理屈ではない。人間を超えた存在に畏敬の念を持ち、拝む心を大切にする。
その気持が強い人を「信心深い人」と言う。

しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の文化圏では、信仰の対象は、唯一絶対の創造主の神様であり、「信仰の対象がどなたなのか」ということが先ず重要になる。
その神様だけを信じ、その神様の教えに従って生きることが、信仰なのだ。

したがって、信仰の対象を問わず「信心深さ」を大切にしてきた日本人が、外国人から

「あなたの持っている宗教はなんですか?」

と問われても、明確に答えられないのは当然なのだが、欧米諸国の人から見れば、そのような日本人の宗教観は、無宗教に映るのかも知れない。

しかしそのような日本人の宗教観を、初代様は間違っているとはおっしゃっていない。
初代様は、次の通り御諭しくださっている。
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私の昔の同業者の中では立派な人ほど、神がいるいないはともかくも、お店の神棚へ煌煌とローソクを上げて、声高々と拝む人もたくさんおりましたが、それを見てこの人は正しい人であると直感いたしまして、取引しても間違いないという気持ちが起こったものであります。
信仰というものは、たとえ鰯の頭でも良いのであります。無神論の者で悪に走るより余程優るでありましょう。鰯の頭でも信仰をする真心のある人は、それがやがて本当の神様に届く時期が到来するのであります。

(初代様お諭し「神は創造の力を与え給いて人類の想像を実現なさしめ給う」より)
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初代様は、信仰の対象は問わず、「信仰する真心」が大切であり、

その真心がやがて「本当の神様」に届く時期が到来する、とお諭しくださっている。
そしてその真心が「本当の神様」と出会えたとき、その人は「宗教」を持つことになる。
与えてくれる「宗教」と、求める「信仰」とがつながった時である。

 

そのときから、単なる「信心」ではなく、「宗教的信仰」に変わる。
 

宗教的信仰

この「宗教的信仰」が、天心聖教における信仰の在り方であり、初代様はこの言葉を、ご訓話の中で、しばしば使われていらっしゃる。
例えば、「宗教的信仰」について、次のようにお諭しくださっている。
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宗教的信仰というものは、神社仏閣などで単に家内安全商売繁昌などと祈るのと訳が違って、祝詞を奏上してお祈りするばかりでなく、教話や体験談などを数多く聞いて、信仰方法や人間のあり方、人物の磨き方などを会得して、幸福の世界に住むようになるのが、すなわち宗教的信仰のあり方なのであります。
(初代様御諭し「幸福の世界を歩む道しるべ」より)
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「神社仏閣などで、家内安全商売繁昌などを祈る」

というだけなら、それは「信心」の粋を超えていない。
「宗教的信仰」とは、それだけでなく、後半部分の

「教話や体験談などを数多く聞いて、信仰方法や人間のあり方、人物の磨き方などを会得する」

ということが加わる。
つまり、「神様に祈り、お願いする」だけでなく、「神様の教えを学び身につける」ということが加わり、この両方をもって「宗教的信仰」というのである。

そのように宗教を持つと、「信心」から「宗教的信仰」に変わる訳だが、人間が一方的に、

「私はこの神様を信仰することにしました」

と思っただけで、宗教を持てる訳ではない。

先ほど申し上げたとおり、「宗教」を持つということは、「神様との接点を持つ」ことである。

したがって、神様にお許し頂かなければならない。
それが「入信」である。

 

宗教に入信するということは

入信とは、

「私は神様を信仰させていただきますから、どうぞ幸福にしてください」

と神様にお願い申し上げ、神様からお許し賜ることを言う。


そのように神様のお許しを賜ってはじめて、その「宗教」を持つことが出来るのである。
入信後、神様は信者であるその人の願いごとをお聞き届けくださり、所願を成就くださるのである。しかし、ただお願いするだけなら、「信心」と変わらない。

「宗教的信仰」には、「神様の教えを学び身につける」という信仰精進が必要となる。
もちろん神様の教えを直ぐに覚えられるわけではなく、ましてや直ぐに身につくものでもない。
しかし日々の精進により、自然と身についていく。
「宗教という神様との接点を通して、神様に祈るとともに、神様の教えを学び身につける」
それが「宗教的信仰」であり、天心聖教における信仰のあり方なのである。

私は神様のおかげで、幸福な日々を過ごさせていただいているが、長年信仰している今でも、「この教えは、こういうことだったのかあ」と初めて分かったり、反省したりすることもすることもしばしばある。

人間死ぬまで修行であり、その修行は霊界に行っても続くかも知れない。

それならば永遠の楽しみを得るために、神様の御導きを賜り、修行を楽しめる人間になりたいと思う。