このブログは、「宗教と信仰について考える」というタイトルがついているが、

一般的に、「宗教」も「信仰」も同じような意味に使われる場合が少なくない。

 

そこでで今回と次回の2回にわたり、「宗教」と「信仰」という言葉の意味について書かせて頂きたいと思う。

たとえば、「あの人は信仰を持っている」と言う場合もあれば、「あの人は宗教を持っている」と言う場合もある。

そのように、この2つの言葉は深く関係する言葉だが、その意味は違う。

ある意味、逆の言葉とも言えるのである。

 

宗教は与えるもの、信仰は求めるもの

第二世教主 島田晴行先生は、宗教と信仰の違いについて、
「宗教は与えるものであり、信仰は求めるものである」

と説かれた。
宗教は与えるもの。
信仰は求めるもの。
宗教と信仰の違いを端的に申し上げれば、そういうことである。

では、「人々が宗教に何を求め、また宗教が人々に何を与えるか」と言えば、

それは「幸福」であり、そして幸福になるための「恵み」や「教え」である。

ただそれは、宗教そのものが与える訳ではなく、

その宗教の「主なる御方」がお与えくださるのだ。

 

では、その御方とは、どのような御方なのか?

そのことによって、宗教は2つに大別されるのである。

 

人間の悟りによって開かれた宗教と、

神様のご降臨によって開かれた宗教

そのことを知るには、その宗教の起原を遡れば分かる。
たとえば仏教について申し上げれば、
仏教は現在に至るまで、2500年の間に様々な宗派に分かれたが、

その起原を遡れば、「お釈迦様の悟り」に行き着く。
つまり、お釈迦様が修行によって、一つの悟りの境地を得て開かれた宗教が仏教である。
したがってその起原からすれば、仏教は儒教と同じく、人間の悟りから起こった「教え」であり、宗教と言うよりも、修養や哲学に近いと言える。

しかしユダヤ教やキリスト教、そして天心聖教、つまり神様のご降臨によって開かれた宗教は違う。人間の修行や悟りによって開かれたのではない。

ユダヤ教で言えば、モーセは80歳になる一人の羊飼いに過ぎなかった。
特別な修行をしていたわけでもない。
そのようなモーセに、神様は突然ご降臨あそばされ、エジプトで虐げられている何十万人ものイスラエル民族を導き出すようにご命令を下されたのである。
モーセは何度も辞退したが、神様はそれをお許しにならなかった。
神様からの一方的な御意志によるものだったのである。

またイエスの場合も、そして天心聖教の初代教祖 島田晴一先生の場合も、神様の予言により、使命を宿してお生まれになられた。

したがって人間の意志など全く入る余地はなく、すべては神様の御意志によるものだった。


したがって、一般的に「宗教」と言われるものを大別するならば、
①人間の悟りによって開かれた宗教(修養)
②神様のご降臨によって開かれた宗教

この2つに大別されるのである。

 

宗教とは、神様と人間との接点

したがって真の宗教とは、修養や哲学や道徳とは違い、

宇宙絶対の神様と人類との「接点」のことを言う。

我々信仰者は、宗教という「接点」を通して、神様から授かる恵みや教えを求め、信仰しているのである。

 

しかし世の中には、特に宗教に入っていない人でも、神社仏閣によく参拝している信心深い方々もいる。
また特定の宗教は持っていなくても、「私は創造主の神様を信じています」という方々もいる。

 

では、特定の宗教を持たずに「神様を信じている」という人と、特定の宗教を持った上で「神様を信じている」という人では、どのような点において違うのだろうか。

 

次回は、そのことについて触れながら、「信仰とは何か」ということについて考えてみたいと思う。