今回は、「先祖供養と因縁」について、天心聖教の教えより書かせていただきたいと思う。

「先祖供養」という言葉から、一般的に「仏教」を想像されると思う。
しかしお釈迦様の教えに「先祖供養」というものはなく、仏教が日本に伝来したときに、日本古来の先祖を尊ぶ思想と結び付き、今に至ったと言われている。

先祖を尊ぶと言えば、イスラエル民族も日本と同様に先祖を尊ぶ。
イスラエル民族の全員が、先祖をさかのぼればアブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)にたどり着く。
また聖書には、先祖の系図が、そこまで書く必要があるのかなと思うくらい、詳細に書かれている。

彼らにとっては、とても重要な事なのだろう。
そのことからしても、イスラエル民族は先祖を尊ぶ民族であることが伺えるのである。
 

キリスト教に先祖供養がない理由

私は一時期、キリスト教に先祖供養がないことを不思議に思ったことがあった。

「そんなことを不思議に思うこと自体が不思議だ」、と思われるかも知れないが、そう思ったのには理由がある。


天心聖教の神様は、かつてイエスをお遣わしになられた神様でいらっしゃる。
しかし、キリスト教と天心聖教の教えの大きな違いの一つに「先祖供養」がある
天心聖教で「先祖供養」は、幸福になるために大切な御神法の一つだが、旧約聖書にも新約聖書にも、「先祖供養」につながるような教えは見つからない。

霊界が存在することも、聖書には記されていないのである。

それはなぜか?
という疑問を持ったときがあった。

しかしあるとき、初代様の御諭しをお聞きして、その疑問が解けた。


その理由は、

イエスが神様に遣わされたのは3年ほどだったからである。
3年ほどで神様は御昇天されてしまい、イエスは十字架にかけられてしまった。

そのために、「霊界」や「因縁」についての教えをイエスは神様から受けられなかった。

だから、キリスト教には霊界や因縁の教えがない

というお諭しであった。


神様は、「霊界」の存在や「因縁」の真理を、初代様の時代になって初めて明らかにされたのである。

では、その真理とは何か。

 

「神界・霊界・現界」、及び「過去・現在・未来」を一貫した真理

初代様はご訓話の中で、

「神界・霊界・現界、及び過去・現在・未来を一貫した真理」

ということについて、いろいろな角度から、お諭しくださっておられる。

そのことについて今までこのブログで、何度か書かせていただいたが、

もう一度あらためて申し上げると、

①神様のお創りになられた世界には、神界・霊界・現界の3つの世界がある。


②人間は死ぬと霊界へ行き、やがてまた現界に生まれ変わる。


③霊界は現界の延長である。(現界も霊界の延長である)

(現界で幸せなら霊界に行っても幸せ、現界で不幸なら霊界に行っても不幸)


④先祖の幸福なくして、子孫の幸福はあり得ない。
(先祖が霊界で幸せなら現界の子孫も幸せ、先祖が不幸なら子孫も不幸)


⑤何事も原因があって結果がある(因縁の現れ)
(善い原因には善い結果が現れ、悪い原因には悪い結果が現れる)


⑥因縁が現れる時期には3つある。
第一期業因縁:自分の為したことの結果が、自分に現れる。
第二期業因縁:親の為したことの結果が、子供に現れる。
第三期業因縁:先祖の為したことの結果が、子孫に現れる。

天心聖教の「先祖供養」とは、これらの真理に基づく供養である。

 

天心聖教の先祖供養とは


人の幸と不幸は、自分の為した行為だけで決まるのではなく、先祖の積んだ徳や不徳によるところが大きい。

したがって幸福になるには先ず、過去の自分である先祖の不徳を、神様にお許し願い、

その罪を解いていただいて、先祖の幸福を神様にお願い申し上げることが最も重要である。


そのことから言うと、天心聖教の「先祖供養」は、キリスト教の「懺悔」や、「悔い改め」に近いかも知れない。

ただ、自分の罪穢れを清めるだけの「懺悔」とは違い、天心聖教の先祖供養は、先祖代々の全ての罪穢れを、神様にお許し願い清めていただく「懺悔」であり、先祖の幸せを願う「祈願」なのである。

よって天心聖教の供養は「神事」であって、「仏事」による供養とは本質的に違う

聖書の中にみる「因縁」の教え

さて、先ほど申し上げたとおり、聖書の中に「霊界」や「先祖供養」についての教えはない。

しかし、「因縁」に通じる教えは、旧約聖書の随所に見ることができる

例えば、
「出エジプト記」や「申命記」で、神様は次のように仰せになっておられる。
「わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、

わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう」
との神様の御言葉が記されている。
これは正に、善きことも、悪しきことも、「先祖の因縁が子孫に現れる」という教えである。

また、イスラエル王国の歴史の中にも、因縁の現れを見ることができる。

ソロモン王は、神様のご命令に背き、「イスラエル王国に偶像を入れる」という罪を犯した。
普通に考えれば、その報いは、本来ソロモン王が受けるべきものである。

そうであるなら、「第一期業因縁」といことになる。


しかし神様は、ソロモンの父ダビデの信仰の功徳によって、ソロモンが生きているうちは罪を裁かれず、ソロモンの死後、息子のレハブアム王の時代に、南北王朝分裂という形で、ソロモンの罪を裁かれた。

これは「第二期業因縁」と言える。
 

また、その後のイスラエル王国は南北ともに、苦しみの歴史をたどることとなった。
それは、ソロモンが偶像崇拝をイスラエルに入れた罪に端を発している。

そのことを考えれば、これは「第三期業因縁」と言えるだろう。

このことから、自分がつくった原因による結果が、自分自身に現れるか、自分の子供に現れるか、子孫代々に現れるか、それは神様がお決めになられる、ということが理解できる。

大きな世界と永い時間軸における

「原因と結果」の現れ

すべての事は、そのように原因があって結果がある。

それが「因縁の法則」だが、それを「現界」という限られた世界の中だけで、また「自分の人生」という限られた期間だけで追求しようとすれば、当然壁に突き当たってしまう。


努力しても報われなかったり、悪いことをしている人間が良い思いをしていたり、

善人が虐げられるのを見て、疑問や不条理を感じてしまうかも知れない。

しかし、神界・霊界・現界、及び過去・現在・未来、という、現界の範囲を超えた、また一生という期間を超えた、大きな世界と、永い時間軸の中で現れる「原因と結果」の現れには、一つの矛盾も不条理も存在しないのである。


なぜなら、神界・霊界・現界のすべての世界と、過去・現在・未来という永い時間軸の中で起こる、「原因と結果」の現れは、全て、宇宙絶対の神様がご支配なさっておられるからである。


よって我々は、目先の損得だけに心奪われて生きるのではなく、


○自分と先祖の過去の罪を神様に懺悔し、先祖の幸福を神様に願う。
○悪行に走って不徳を積まない。
○知るや知らずや積んだ不徳は、神様にお詫びし、お許し願う。
○神様の御心に適った行いを心がけ、未来の自分と子孫に徳を残していく。


という生き方を身につけることが、もっとも大切なのだと思う。