前回は、旧約聖書の中から、ソロモンの【箴言】について書かせていただいた。

今回は【伝道の書】について書かせていただき、その違いについて考えてみたいと思う。

前回も申し上げた通り、私は天心聖教徒であってキリスト教徒ではないので、神学的見解は分からない。
あくまでも私個人の感想である。

まず【伝道の書】に何が書かれてあるかを見てみたいと思う。

伝道の書に書かれていること
 

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伝道者は言う、
空(くう)の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、
その身になんの益があるか。

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「伝道の書」は、この言葉で始まる。
これが、この書全般にわたってソロモンが言わんとしていることである。
したがって、高い知性は感じられるものの、マイナーな言葉が多く、

「箴言」のような力強さはない。

読んでいて空しささえ覚えるのである。

たとえば、
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わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、
これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
それは知恵が多ければ悩みが多く、
知識を増す者は憂いを増すからである。

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ソロモンは「箴言」の書で、「知恵」の大切さを繰り返し説いている。

それなのに「伝道の書」では、なんと、知恵が深まれば憂いも増すと、

知恵を否定するようなことを言っているのである。

また、

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日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。 
今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、
これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。
これもまた空(くう)であって、大いに悪い。 

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自分が、王として苦労して築いたものを、

なぜ何も苦労していない者に、全部与えて継がせなければならないのだ。

と、不条理への不満を漏らしている。

さらに、

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わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。
しかし、この両者よりもさいわいなのは、まだ生れない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である。

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ソロモンは、どれほど多くの悪事を見てきたのだろうか?
「この世に生まれてこなかった者が、一番幸せだ」

と言っているのである。

また、

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わたしは千人のうちにひとりの男子を得たけれども、

そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった。 
見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである。
すなわち、神は人を正しい者に造られたけれども、
人は多くの計略を考え出した事である。

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はじめこの意味が分からなかった。
ソロモン王には、千人の妻と妾(めかけ)がいた。

その中で男の子は一人生まれたが、女の子は一人も生まれなかった、という意味かな?
と思ったら、どうやらそうではないらしい。

他の日本語訳を見たら、
「千人に一人という男はいたが、千人に一人として、良い女は見いだせなかった」
と訳されていた。
千人の妻と妾の中に、誰一人として良い女はいなかった。
みんな謀(はかりごと)ばかりをしている。
という意味なのだ。

なんだか空しくなってくるので、もうこのへんにしておこう。

 

ソロモン王の罪と心変わり

これらの言葉は、知恵も、地位も、富も、名声も、あらゆるものを手に入れ、

イスラエル史上最も栄えた王国を築き上げた、ソロモン王の言葉なのである。

この書の中には、鋭く真理を説いた、英知に満ちた言葉も垣間見られるのだが、
全体的に「人生は空しい」ということを言っている。

また、ソロモンは、「良い女性は一人もいなかった」と言っているが、書かれている内容からして、それは全ての女性を対象に言っているのではなく、ソロモン王のもとに集まってきた、千人の妻や妾たちのことを言っているのだと思う。

以前にも書かせて頂いたが、イスラエルの民は、神様から、他国の女性を妻や妾にすることを禁じられていた。

それはイスラエルの民が偶像崇拝に染まらないためである。
しかしソロモンは、多くの外国の女性を愛し、偶像崇拝の国から、多くの妻や妾を迎え入れたのである。

若いときのソロモンは、深い信仰心を持っていたが、

栄華を極め、もてはやされれているうちに、心変わりしてしまったのかも知れない。
外交のための政略結婚、という意味もあったかも知れないが、

どのような大義名分があったにせよ、神様のご命令に従わなかったことに変わりはない。

その結果、ソロモンが老境に入いると、偶像の国から迎えた妻や妾たちは、ソロモン王の心を迷わせ、偶像の神々に向かわせた。

そしてソロモンは、イスラエルでの偶像崇拝を認め、偶像をまつる場所までつくったのである。

 

ソロモンは若き頃、イスラエルの神のために荘厳な神殿をつくった。

しかし晩年は、そのような神様への熱い思いはなく、妻や妾たちを律することすら、できなかったのである。

 

神様はお怒りになり、ソロモンに2度も現れて戒められたが、

ソロモンは、神様の御言葉に聞き従う心を失っていた。

すると神様は、
「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、

わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。
しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、

あなたの子の手からそれを裂き離す」
と仰せになられた。

神様のお言葉は厳しい。
「心が変わった」とはおっしゃられず、

「これがあなたの本心である」

と仰せになられたのである。


そして神様のお言葉どおり、ソロモンの死後に、イスラエル王国は南北に分裂し、偶像崇拝はさらに広がり、数百年後にイスラエル王国は滅亡してしまうのである。

ソロモンは、おそらく悩み続けたと思う。
しかし老境に入ったソロモンは、一旦認めた偶像を排除してイスラエルを元に戻す気力も、神様を思う熱い心も、失っていた。
そのような状況の中で、ソロモンが書いたのが、この「伝道の書」だと私は思うのである。

しかしそれでも、やはりソロモンである。
この「伝道の書」の最後になって、崇高な結論に到達するのだ。
 

ソロモンが到達した結論

ソロモンは「伝道の書」を次の言葉で締めくくっている。

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伝道者は知恵があるゆえに、知識を民に教えた。
彼はよく考え、尋ねきわめ、あまたの箴言をまとめた。
伝道者は麗しい言葉を得ようとつとめた。
また彼は真実の言葉を正しく書きしるした。

(中略)
わが子よ、これら以外の事にも心を用いよ。
多くの書を作れば際限がない。
多く学べばからだが疲れる。


事の帰する所は、すべて言われた。
すなわち、
神を恐れ、その命令を守れ。
これはすべての人の本分である。

神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

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ソロモンはその知恵によって、あらゆることから、この世の真理を探し求めた。

しかし結局、求め得ることはできなかった。
ただ、ソロモンはその探求の末に、重要な結論に到達した。
それは、

神が創造された真理を、人知で測り知ることは、とうてい出来るものではない。
よって人間の本分は、
「神を畏れ、神の命令を守れ」

ということに帰着する。

これが「伝道の書」の結論なのである。


伝道の書は、はじめから終わりまでずっと、「人の一生は空しい」と言い続けている。
しかしそれは、他の誰かの人生のことを言っているのではなく、

ソロモン自身の人生のことを言っているのだと思う。
ソロモン自身が晩年になって、自分の人生を振り返ったとき、

「空しい人生だった」

と、本当に思ったのだろう。

知恵も、地位も、富も、名誉も得られたが、

信頼できる人も、心を開くことができる女性も、とうとう得ることができなかった。
みんな謀(はかりごと)をもって接してくる者ばかりだった。

しかし、そのすべての原因をつくったのは、ソロモン自身である。
すべては、神様の戒めに従わなかったソロモン自身が招いたことなのだ。

その人生を振り返った時、ソロモンは思った。
「わたしの本分は、神を畏れ、神の命令を守ることであった」

と。

この「伝道の書」の結論は、
(わたしは、そのように生きるべきでした)
という、神様に対するソロモンの懺悔であったのかも知れない。