今回と次回の2回にわたり、
旧約聖書の中から、ソロモン王が残した【箴言】と【伝道の書】の違いについて、書かせていただきたいと思う。
私は天心聖教の信徒であり、キリスト教神学を学んだことはないので、これから書くことは、個人的な見方に過ぎないことを、はじめに申し上げておきたい。
今回テーマに取り上げた理由は、「箴言」と「伝道の書」の違いが、とても興味深かったからである。
ソロモン王の知恵
まず「箴言(しんげん)」とは、「戒めの言葉」とか、「格言」という意味であり、ソロモン王が、イスラエルの民に、戒めと教訓を伝えた「格言集」である。
なぜか終わりのほうに、一部だけソロモン以外の人の言葉もあるが、ほとんどはソロモンの格言が収められている。
「ソロモンの知恵」という言葉があるほど、ソロモンは誰よりも大いなる知恵を神様から授かった。
ソロモンの知恵の一例として、列王記上には、次の話が記されている。
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ある日、遊女が二人、ソロモン王のもとに来て前に立ち、一人の女が言った。
「王様、よろしくお願いします。わたしはこの人と同じ家に住み、この人のいるところでお産をしました。三日後に、この人もお産をしました。
ある晩、この人は寝ているときに赤ん坊に寄りかかったたため、この人の赤ん坊が死んでしまいました。そこで夜中に起きて、わたしの眠っている間にわたしの赤ん坊と、死んだこの人の赤ん坊を取りかえたのです。
わたしが朝起きて自分の子に乳をふくませようとしたら、子供は死んでいて、わたしの産んだ子ではありませんでした。」
すると、もう一人の女が言った。
「いいえ、生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子です。」
「いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子です。」
二人は王の前で言い争った。"
王は言った。
「『生きているのがわたしの子で、死んだのはあなたの子だ』と一人が言えば、もう一人は、『いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子だ』と言う。」
するとソロモン王は、剣を持ってこさせて命じた。
「生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ。」
生きている子の母親は、その子を哀れに思うあまり、
「王様、お願いです。この子を生かしたまま、この人にあげてください。
この子を絶対に殺さないでください。」
と言った。
しかし、もう一人の女は、
「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください。」
と言った。
ソロモン王はそれに答えて言った。
「この子を生かしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してならない。
その女がこの子の母である。」
王の裁きを聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。
神の知恵が王のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。
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という話である。
ソロモンの知恵の噂を聞いたシェバの女王は、ソロモンの知恵を試そうと難問を用意し、多くの随員を引き連れてエルサレムにやって来たが、ソロモンは難問のすべてに答え、女王を大変驚かせた。
そのソロモンの知恵が、「箴言」の中にあふれている。
まず、その冒頭部分を抜粋してみたい。
「箴言」に書かれていること
冒頭に、次のように「箴言」の目的が書かれている。
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【箴言】 第一章 ダビデの子、イスラエルの王 ソロモンの箴言。
これは人に知恵と教訓とを知らせ、
悟りの言葉をさとらせ、
賢い行いと、正義と公正と
公平の教訓をうけさせ、
若い者に知識と慎みを得させるためである。
賢い者はこれを聞いて学に進み、
さとい者は指導を得る。
人はこれによって箴言と、たとえと、
賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る。
主を恐れることは知識のはじめである、
愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。
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さらにソロモンの知恵の凄さは、その表現手法にあると思う。
「箴言」はソロモンの言葉だが、その中で、ソロモン自身ではなく、擬人化された「知恵」が語っているところが多くある。
「だから何なの?」
と思われるかも知れないが、「知恵」という擬人化された存在が語ることによって、厳格でストレートな教えが、我々に受け入れやすい言葉となって入ってくるのである。
「知恵」は次のように語っている。
「わたし」とは、ここでは「知恵」のことである。
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思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで
思慮のないことを好むのか。
あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、
愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
わたしの戒めに心をとめよ、
見よ、わたしは自分の思いを、あなた方に告げ、
わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。
わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、
手を伸べたが、顧みる者はなく、
かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、
わたしの戒めを受けなかったので、
わたしもまた、あなたがたが災いにあう時に、笑い、
あなたがたが恐怖にあう時、あざけるであろう。
(箴言1-22~26)
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この言葉は、「知恵」という擬人化された存在が語っているから、言葉が重く、なおかつ受け入れやすい。人によって違うかも知れないが、私はそう思うのである。
もしこの表現を、ソロモン王の語った言葉で表現したら、これほどストレートには表現できないだろう。
「擬人化した知恵に語ってもらう」、という高度な表現方法は、正にソロモンの知恵だと思う。
今から約3000年も前に、そのような手法で文章を綴ったソロモンの知恵にはただ驚くばかりだが、列王記によれば、ソロモンの格言の数は3000もあったそうだ。
その中の一部の、数百の格言が「箴言」に編纂されている。
また、ソロモンが作った「歌」は1500もあったというのだから、その知恵は湧き出る泉の如くだったことが想像できる。
ただ、不思議に思うこともある。
それは、箴言の中に「モーセ」という言葉が出てこない、ということだ。
一箇所くらい出てきても良さそうなのだが、一つもない。
そればかりでなく、「十戒」も、「律法」も、「アブラハム」という言葉も出てこないのである。
モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)からの引用箇所が、私には見つからない。
箴言は、神様から授かった「知恵」による、ソロモン独特の表現なのだと思う。
「伝道の書」について
さて、次は「伝道の書」である。
実は、私が特に興味を持ったのは、この「伝道の書」のほうである。
「伝道の書」の「伝道」とは、「布教」のことではない。
なぜか分からないが、この書でソロモンは自らを「伝道者」と呼び、ソロモンであるとは名乗っていない。
しかし冒頭で、「ダビデの子、エルサレムの王」と言っているので、そのような人物はソロモン以外にはいない。
そしてなによりも興味深いのは、内容が、「箴言」とは全く違うのである。
「伝道の書」の冒頭部分は、次の通りである。
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【伝道の書】
第一章 ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
伝道者は言う、
空(くう)の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、
その身になんの益があるか。
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「伝道の書」は、このような感じの言葉がずっと続いている。
もちろん神様への信仰を表す言葉もあるが、全体的に「箴言」とはちがって、
「人生は空しいものだ」ということを、いろいろな実例を上げて、書き綴られているのである。
そのあまりの違いに、
「伝道の書はソロモンが書いたのではない」、と主張する人たちも少なくない。
しかし私は、「伝道の書」は、知恵にあふれたソロモンの書だと思っている。
ではなぜそれほどまでに、「箴言」と「伝道の書」は違うのだろう。
それはおそらく、書いた時のソロモンの心情が違っていたからだと思う。
具体的に言えば、
ソロモン王が神様に忠実だった若き頃の書が「箴言」であり、
ソロモン王が神様の御心から離れて罪を犯し、神様から裁きの御言葉を受けた後、晩年に書いた書が、「伝道の書」なのだと思うのである。
次回は、そのことについて、もう少し踏み込んで書かせて頂きたいと思う。