今回は、旧約聖書「創世記」の、「天地創造」について書かせて頂きたいと思う。
私個人の感想なので、脱線話として読んでいただければと思う。

「創世記」によると、はじめの地球は、形なくむなしく、闇に覆われていた。

その状態から、神様は次の順番で天地を創造された。

<1日目> 光を創造。
<2日目> 昼と夜を分離。空と地に水を分離。陸と海を分離。
<3日目> 植物を創造
<4日目> 太陽・月・星を創造
<5日目> 海を泳ぐ生き物と、空を飛ぶ生き物を創造
<6日目> 地を這う生き物と人間を創造
<7日目> すべての創造を終えて、神様はお休みになられた。


この「天地創造」の記述を、そのまま事実として受け入れることは一般的に難しいが、事実だと信じておられるキリスト教徒の方々もいらっしゃる。
もちろん、「天地創造」の記述はすべて事実である、という可能性も無い訳ではない。
なぜなら、神様がなさることを、現代科学の尺度で計り知ることはできないからである。


私個人としては、旧約聖書のモーセによる出エジプトの時代や、新約聖書のイエスの時代の奇蹟については、天心聖教の教えからも、自分自身の体験からも、事実だったと確信している。


しかし「天地創造」の太古のお話になると、それが神様の教えによるものなのか、古代からの伝承によるものなのか、正直分からない。
ただ、旧約聖書の「創世記」を書かれた人はモーセである。

神様がモーセに、意味のないことを書かせられるはずはない。

だから聖書に記された内容が、どのような内容であっても、
「きっと何か意味があるのだろう」
と思って、私は聖書を読むことにしている。

聖書を読む時の2つの読み方

さてそこで、「聖書を読むときの、読み方」について考えてみたい。
聖書を読むに当たり、2つの読み方があると思う。

1つ目は、「神様の御心を探求する」という読み方。
2つ目は、「史実を探求する」という読み方。
である。

この2つの観点から「天地創造」を読むとどうなるだろうか?

1つ目の「神様の御心を探求する」という観点から読むと、天地創造の記述が、何を語ろうとしているかは明白である。
それは、

イスラエルの神は、天地一切すべてを創造された「創造主の神」でいらっしゃること。

その創造主の神が、生物の中で最も尊い存在として、人間を創造された、ということ。

である。
そのことを初めに理解しないと、聖書全体を貫いている「神の絶対性」が理解できない。
したがって、この「天地創造」の場面は、聖書の中で、とても重要な部分だと私は思っている。
そしてまた、この「神様の御心を探求する」という読み方が、聖書を読む上で最も大切なことだと思う。

しかし、その一方で、聖書は大歴史書でもある。

したがって、「史実を探求する」という読み方も当然必要だ。
だから私は、2つの読み方を頭において読むようにしている。

「天地創造」のお話は史実なのか

それでは次に、2つ目の「史実を探求する」という観点から、「天地創造」を読むとどうなるだろう。

現代科学では、地球誕生から人類誕生まで、約46億年かかったとされている。

もちろん、現代科学がすべて正しい訳ではない。

この先、新たな発見によって、まったく変わる可能性もある。

ただそうは言っても、聖書の7日間は、あまりにも短すぎる。

またもう一つの疑問は、「なぜ光が先なのか?」ということだ。
道理から言うと、太陽が先にできて、光は後からできたはずである。(実際はほぼ同時だが・・・)
しかし聖書では、1日目に光ができ、昼と夜ができた後、4日目に太陽・月・星々ができたとある。
なぜ順番が逆なのか?

「天地創造」のお話は、古代人に伝わる伝承に過ぎないのか?

科学的根拠の全くないお話なのか?
ということを探ってみよう。
 

世界観の違いを考える

我々現代人と、古代人では、世界観が違うことを、まずはじめに認識しなければならないと思う。
 

どういうことかと言うと、
我々現代人が、「天地創造」をイメージする場合、舞台は宇宙空間である。
その宇宙空間には、燃える太陽と、丸い原始地球が浮かんでいる。
宇宙空間に行ったことはないが、映像や写真の記憶から、思い浮かべることができる。

しかし古代人は、地球が自転していることはもちろん、地球が丸いことも知らない。
ましてや宇宙の存在など想像もできないだろう。
彼等の視点はただ一つ、「地表から見た光景」だけである。
彼等の眼前に広がっていたのは、遥か彼方の地平線を境に別れる、

「天」と「地」の2つの世界であり、それが彼等の全世界なのだ。

したがって彼等にとって「天地創造」とは、その字のごとく「天と地の創造」以外の何ものでもない。

その彼らに対して、「広大な宇宙が存在している」とか、「太陽の周りを1年かけて地球が回っている」とか、「138億年前のビッグバンによって宇宙が誕生した」とか、たとえそれが事実であったとしても、そんなことを伝えたところで意味がないどころか、混乱させるだけである。

神様はイスラエルの民に、現代科学を教えようとされたのではない。
信仰を植え付けようとされたのである。

もしもイスラエルの民が、混乱するような形で「天地創造」の真実を伝えられたとしたら、肝心な「創造主の神」と「人類の創造」という本題を見失ってしまう。
「天地創造」というものを、彼等の視点から理解させる必要があったのではないだろうか。

そう思うのである。

ということはつまり、天地創造のお話はまったくの作り話で、創造主の神を、古代人に対して認識させるための、一つの方便だったのだろうか?
実は、そうとも言えないのである。

もし、天地創造の場面を、地球の「地表」に立って見たら、どのように見えるだろうか。

 

地表から見た天地創造

 

天地創造のときはまだ、人類は誕生しておらず、実際に見た人間はいないはずである。

しかしもしも、地表から見た天地創造の光景を、7つのシーンにダイジェストしたものを、

神様が、誰かに、夢か幻によって、7日間連続で1シーンずつ見せられたとしたら、

そしてその光景をその者に記述させたとしたら、どうだろう。
おそらく「天地創造」の記述と一致すると思う。

初めに神様は、太陽を発光させられた。

しかし地球を覆っている塵、あるいはガスや雲などによって、地表からは太陽も、月も、星々も見えない。

ガスや雲全体に広がる淡い光が見えるだけだ。

同時に、地球は自転しているため、昼と夜が生まれた。

その後、海と陸が誕生し、植物が生まれ、厚い雲で覆われた大気が次第に澄みはじめる。
すると今まで地表からは見えなかった、太陽、月、星々が見えるようになった。
それはまるで、何もなかった空に、太陽と月と星々が新たに生まれたかのように見えただろう。
植物の誕生、海洋生物の誕生、陸上生物の誕生、という生命誕生の順番は、聖書の記述も、現代科学の見解も、ほぼ同じである。
 

以上のことは、もちろん想像でしかない。
想像でしかないけれども、そのような可能性があり得るなら、天地創造の記述を非科学的だと決めつけることは出来ない。

聖書を読むに当たって、その内容が信じがたいことも確かにある。

しかしたとえ信じがたいことであっても、「何か意味があるのではないか」という感覚を持って読むことは、大切だと思う。

 

そしてまた、その時代の人々の視点というものも考慮しならが読むことも必要だろう。

 

もしかしたら遠い未来に、
「21世紀の人たちは、なんでこんなことを考えていたんですかねえ?」
「それは、彼等がまだ、この真理を知らなかったからだよ。彼等の視点に立って考えてみることも必要だと思うよ。」
という会話が交わされているかも知れない。