前回、「人の言葉から神様の御声を聞ける信仰者になるには、どのような修行をすればよいかを探ってみたい」と申し上げたので、教えの中から探ってみたが、数々の教えがあり、奥深いテーマであると知った。
そこでこの大テーマは、これからの探求課題とさせていただき、今回はテーマを絞って、「悟る心」について書かせていただきたいと思う。

 

初代様は次の通り説かれていらっしゃる。

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人様に感じとられたものが、自分の目に映ったり、耳にきこえた場合など、「ここだな」と、日ごろの信仰を生かしまして、「神は数多の人に現れて我の師となり教え給う。人の行いの内にも神の教えが現る。人の言葉の内にも神の声を聞くものなり」と教えのあるのはここだな。
これは神様が「汝、目醒めよ。汝、気がついて悟られよ」とおっしゃる代わりに、相手の人を以て現す、神様のご警告である、と直感致しまして、これを素直な心で受け取り、たとえ人に小さく見られましょうとも、またバカにされましょうとも、決して相手を恨んだり怒ったりすることなく、己を磨くのはここだ、本教の教えに、
「深山で座禅を組むより、複雑化した都会を道場として、多くの人と四つに取り組み、すべてのものを対象として自己を磨いてゆけば、立派な人物が出来上がるのである」という教えがあるのはこれだな、と思って自分を磨いてゆくことが、自分を向上させて立派な人間となるいちばんの近道なのであります。

(初代様お諭し「神は数多の人に現れて我の師となり教え給う」より)
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このお諭しより、神様は常に我々に対して、

『汝、目醒めよ。汝、気がついて悟られよ』

と仰せになっておられることを、まず知らなければならないと思うのである。

次に、「由来」の中の実例をもとに、「悟り」について考えてみたい。
 

三部平三郎氏に対する神様の御心と悟り

初代様の御弟子に、三部平三郎先生という先生がいらっしゃった。
天心聖教が開教される前、三部先生が、まだ先生になられる前のお話である。
三部氏は、初代様がかつて佐賀町で雑穀商を営んでおられた頃の信仰仲間であり、神様から相場のお告げが下ったときに筆記役を務めた人である。初代様のお店の番頭でもあった。

戦争中、一時祭り事は中断されていたが、戦後の混乱も落ち着きはじめた頃、初代様は駕籠町(現在の文京区本駒込)に移転され、再び御神前を造って神様をお祀りし、家族で信仰をされていた。
すると昔の信仰仲間が集まって、また皆で信仰を始めようではありませんか、ということになり、昭和24年10月に祭り事が再び開かれるようになった。
翌月、三部平三郎氏も誘われ、山形から上京してきた。

初代様のところに到着した三部氏は当時体調を壊しており、毎晩5、6回も小便に起きると言う。

医者にかかっても治らず、煎じ薬を入れた水筒を持参していた。
初代様は、三部氏に、神様によくお願いして御神前の座敷に寝るように諭された。

その場面を「由来」から一部抜粋させていただくと、
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『なあんだ。三部さん! それは日頃神様にお祈りしていない証拠だよ。
その証拠には、今晩神様に、ようくお願いして、御神前の座敷へ寝てごらんなさい。
ぴったり治ってしまうのが、何よりの証拠だよ』
と申しまして、その晩、御神前へ休ませたところ、どうでしょう。ケロッと治ってしまいました。

(中略)
やがて十日余り東京見物して帰りまして、翌月再び例祭に来ますと、やはり小便が治りません。

御神前に寝ると、ピタリと治ってしまう。
四、五か月繰り返しているうちに、神様がお現れになりまして、
“三部平三郎の悟りのにぶいこと”を諭されました。それはこうです。
神様の御前に来れば、その因縁病を神様がお預かりになり、山形へ帰る時に、神様は三部さんに返してしまうのだそうです。

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この後すぐに、三部氏は上京を決意した。

そして開教後は、初代様の御弟子として教師となり、神様に仕える道を歩まれた。


したがって、三部氏が、東京に来ると病気が治り、山形に帰ると元に戻るという現象は、初代様のもとで神様に仕えるようにという、三部氏に対する神様の御心だったのである。
三部氏がそのことを悟るのを、神様は4、5ヶ月も待たれていらっしゃった。

しかし、いつまでも悟らないので、神様は御言葉をもってお諭しになられたのである。

もしも、神様がはじめから御言葉をもってお諭しになられていたとしたら、おそらく三部氏は直ぐに上京を決意されていただろう。
しかし神様はそうはなさらなかった。

三部氏の病気が治ったり戻ったり、という現象を現されて、「悟り」を待たれたのである。
このことは何を意味するのかを考えてみたい。
 

昭和27年11月11日に降された御神示

このことは以前、精神文化と科学文明の項でもテーマとさせていただいた内容だが、そのとき引用させていただいた御神示の中にも「悟り」という御言葉が出てくる。
もう一度引用させていただくと、

【昭和27年11月11日に降された御神示】より
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「国の境も無くなり、人種の別も無くなり、宇宙間の人類共に、標準語を授け、皆共通となって自然平和となる時期は遠くないものぞ。
 地球上の人類が、此の先戦争状態が何うなって、人類は其の間何うなると言う事を、其の方共の努力によって、吾はドシドシ諭しつかわすにより、世界に呼びかけてドシドシ発表せよ。
然らばたとえ、千年の戦争が続く状態にありとも、諭されたる実現に依って、五百年行った所で、後五百年は悟りによって解決するものぞ。
人類を万物の霊長になしたる故、其の動物の成す事、できざるは無しまで与えるものぞ。

(中略)
「即ち科学を益々発展させ、恐ろしさの余り、勢い戦争は誰しも避けるようにならせると同時に神の威力の併行して、争いを一掃なさしめるのである。」

(「由来」より)
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人類の戦争も、「悟り」によって解決すると、神様は仰せになっておられる。

しかしここで考えてみたい。
「神様の御威力をもってすれば、世界の指導者や支配者たちの心を自由自在に動かして、武器を強制的に破棄させることも出来るのではないだろうか?」

と思う。
そうすれば、戦争を無くすのに500年かけなくても、数日で終わせることが出来るかも知れない。
しかし神様の御心はそういうことではなく、500年かかろうとも、人間の「悟り」によって解決させようとしておられるのである。


この御神示で、神様は、人類未来について、いつくかの事を仰せになっておられる。
「国境も無くなり、人種の別も無くなる」
「人類に標準語を授ける」
「皆共通となって自然平和となる」
「人類の悟りによって戦争は解決する」
「人類を万物の霊長になす」
「科学を益々発展させる」
「争いを一掃なさしめる」
との御心をお示しくださっておられるのである。

このことから、神様は、ただ単に戦争をやめさせようとされているのではない、ということが分かる。

「悟り」によって戦争を解決させ、戦争を二度と起こさないような人類に、人類を「神化」させようとしておられる
そのように、拝察申し上げるのである。

 

悟りなくして人生は開かれず

島田晴行先生は、
「悟りなくして人生は開かれず」
と、よくお諭しくださった。

 

我々信仰者が、神様の教えを勉強するのは、単に学問として勉強しているのではない。

日々遭遇する大小様々な出来事から、神様の御心を正しく悟り、正しく判断していくために、「神様の判断基準」を勉強している、とも言えるのである。

その基準をもって、「神様はどのように思し召されるのだろうか」と、神様の御心を仰ぎ、正しく悟れるようになることが、我々信仰者の大きな課題だと思うのである。

 

個人の未来も、人類の未来も、この「悟り」無くして開かれるものではなく、「悟る心」を養うことが如何に大切であるかということを、神様の教えを通して改めて感じた次第である。