今回は、「精神文化と科学文明」ということについて書かせて頂きたいと思う。


その前に「人格」ということについて触れておきたい。


第二世教主 島田晴行先生は

「人格とは各自の人間性と能力のことである」

とご教導くださった。

(※この教えは直接お聞きし、ノートにも、機関誌にも書かれている)

もちろん「人間性と能力は、全く別ものである」ということではない。
たとえば「美味しい物を作って、お客様の喜ぶ顔を見たい」という料理人の「人間性」が、美味しい料理を作る「能力」を高める原動力になるからである。

しかし実際にはそういうことばかりでなく、何でも器用に出来るけれども、人の足を引っ張ったり、能力が足りない人をバカにしたりする人もいる。
また逆に、気持ちがやさしくて親切だけれども、仕事では気が利かず、何をやらせても用が足りないという人もいる。

もちろんそれは程度問題であり、誰でも長所や短所があるわけだから、「人格者か、それとも人格者でないか、2つに一つだ」というように、白黒はっきり別れるものではない。
しかし、この「人間性」と「能力」の2つが、人格者の要素であることは誰もが得心のいくことだと思う。

 

精神文化と科学文明


さて、この「人格とは人間性と能力である」という教えを、「世界人類」に当てはめて考えれば、
「人類の格」とは、「高い精神文化」と「高度な科学力」を持った人類ということになると思う。

近代における科学の進歩はめざましく、この数年から数十年は、「便利になったなあ」と感じる以上に、「ついていくのに大変だなあ」と感じるほど、科学は急激に進歩した。
(それは私の年齢が若干関係しているかも知れないが・・・)
そのような急激な科学の発達に恐ろしさを感じることさえある。

しかし科学の発達を我々人間は止めることができない。
なぜなら、神様がそうされていらっしゃるからである。


神様は人間に想像と創造の力をお与えになられ、神様の導きを得て、人類の科学は発達してきた。
科学の急激な発達は、確かに人間の努力によるものではあるが、実は、神様が人間を使って発達させてくださったのである。

科学の進歩は人工的現象のように感じるが、神様によってなされた自然現象とも言えるのである。

人間は自然に逆らうことは出来ない。


さて、科学の進歩と、戦争と平和の問題は、非常に密接な関係がある。
次の御神示から学び、考えてみたいと思う。

戦争は人類の悟りによって解決する

【昭和27年11月11日に降された御神示】より
(※由来上巻「例祭及び御籠り中に於ける御神示」より抜粋して引用)
「国の境も無くなり、人種の別も無くなり、宇宙間の人類共に、標準語を授け、皆共通となって自然平和となる時期は遠くないものぞ。
 地球上の人類が、此の先戦争状態が何うなって、人類は其の間何うなると言う事を、其の方共の努力によって、吾はドシドシ諭しつかわすにより、世界に呼びかけてドシドシ発表せよ。
然らばたとえ、千年の戦争が続く状態にありとも、諭されたる実現に依って、五百年行った所で、後五百年は悟りによって解決するものぞ。人類を万物の霊長になしたる故、其の動物の成す事、できざるは無しまで与えるものぞ。」

(中略)

「即ち科学を益々発展させ、恐ろしさの余り、勢い戦争は誰しも避けるようにならせると同時に神の威力の併行して、争いを一掃なさしめるのである。」

この御神示には前段があるのだが、前段部分については、改めて別の項で書かせていただきたいと思う。

実は私は、この御神示を初めて読んだ時、
え? 神様が戦争を止めてくださるのではないの?
人間の悟りによって解決するってどういうことだろう?
戦争が一掃されるまで500年もかかるの?
畏れ多いことだが、それが率直な感想だった。

特に、「戦争は人類の悟りによって解決する」という意味が分からなかった。
しかしその意味が、初代様のご訓話、島田晴行先生のご訓話を通して次第に分かってきた。

神様の御威力をもってすれば、世界の指導者や支配者達の心を自由自在に動かして、武器をいっぺんに破棄させ、強制的に戦争を形の上で無くすことは、500年どころか数日で出来るかも知れない。
しかし神様の御心はそういうことではない。
500年かかろうとも、人間の悟りによって解決させようとしておられるのである。

戦争がこの世から一掃される時代には、現在生きている我々は一人残らず、霊界にいるか、または生まれ変わっているだろう。

「人間は死ねば終わりだ。子孫のことなど考えていられない」

というのであれば、この御神示も人間にとって無意味なものとなる。
しかし人間はそのような存在ではなく、未来の人類に役立つことを、何か一つでもいいから残したい、というのが万物の霊長である人間の価値だと思う。

では、戦争の問題を人類の悟りによって解決させることで、神様は何をなさろうとしておられるのだろうか?

人間の悟りによって、戦争がこの世からなくなった時、世界人類はどう変わるのか。
そのとき人類は、科学文明を超えた高度な精神文化を得た、と言えるのではないだろうか。
つまりそれは、人類の「神化」である。
神化とは、精神性においても、能力においても、神様に近づくことである。

先程の御神示から拝察申し上げることは、
神様は、科学をどんどん発達させて、人類が高い精神文化を持たざるを得ない状況をお造りになられた、と言えるのではないだろうか。

そして人類がそのことに気がつくかどうかを、ご照覧になっておられるのではないのだろうか。
いや、ご照覧になっておられるだけではない。
「気がついて悟れよ」との御心をもって、お導きくださろうとしておられるように思うのである。

先ほどの「人格とは人間性と能力のことである」という教えにもとづけば、戦争が人類の悟りによって解決された時、人類は「優れた能力(科学文明)」だけでなく「高い人間性(精神文化)」を備えた、万物の霊長にふさわしい、神化した人格を得たと言えるだろう。


そのために、神様は人類に「優れた科学力」を持たせ、人類がその科学力を善導できる「高い精神文化」を持たざるを得ない状況をお与えになられたのではないかと、拝察申し上げるのである。

今後、科学が益々進歩して、スイッチ一つで、地球ごとこっぱ微塵にできるような兵器を作れるようになるかも知れない。

もしそんな物がテロの手に渡ったら大変なことになる。

高度な精神文化を人類が持てば、そんな者はいなくなるだろうが、それでも中には心得違いする者がいるかも知れないので、その時代には、そんな不心得者が現れないように、AIの監視も必要なのかも知れない。
また、地球ごとこっぱ微塵にできるような恐ろしい技術でも、たとえば巨大隕石が地球に落下するような事態になった時は、逆に地球を救うこともできる。

そのように、どのような技術や能力も、それを使う人間性によって、人々の役に立つか害になるかが決まる。
人間がお互いにより良い生活をするための法律さえも、その知識を悪用して人を苦しめることだって出来る。
もっと言えば、宗教の教えだって、悪用しようと思えば出来るのである。
宗教の教えを、都合のよいように解釈して、人をだまし苦しめることだってできるのだ。
それを邪教と言う。
邪教とは、邪(よこしま)な教えのことだから、それは神様の教えではなく、悪魔による誘いである。

もちろん宗教は、そんな存在ではない。
あらゆる科学文明を道徳化し、より豊かで平和な人類世界を築くために存在する。
その意味においても、科学と宗教を切り離してはならないのだ。

 

神様は、科学力という「能力」を次から次へと人間にお授けになられると同時に、「さあ、お前たちはこれをどう使うのだ?」と問うておられるのだと思う。