前回は「奇蹟とは何か」について書かせていただいたが、今回も引き続き、同じテーマで書かせて頂きたいと思う。


奇蹟とは神様ご存在の証しである、ということを前回申し上げた。

もちろん奇蹟の体験がなくても、神様のご存在を信じている人は、世の中にたくさんいらっしゃる。
人間の心の奥底は神様につながっていて、神様を信じる心は誰もが持っている。

 

しかし神様のことを信じて想っているだけでは、人間の想像の範疇を超えることはできない。
神様のことを正しく知るには、神様からの体験と、神様からのお言葉が必要なのである。

 

聖書の奇蹟

たとえば、聖書について考えてみたい。
旧約聖書も新約聖書も、神様のことを人間が想像して書いた書物ではない。
人間の意志とは無関係に、神様が救い主や預言者をお遣わしになり、奇蹟とお言葉をもって人々をお導きになられた。

すべては神様の御意志によってなされたことである。

そのことを体験した当事の人たちが、そのまま記録した書物、それが「聖書」である。
したがって聖書は「神学書」ではなく、「歴史書」である。

しかし歴史書とは言っても、何千年も前のことであるから、生き証人がいるはずもなく、聖書の奇蹟を信じるか、信じないか、あるいはどう解釈するかによって、今現在いろいろな考え方に別れている。

キリスト教、仏教などに関する御神示


昭和27年3月4日の午後10時に、初代様に降された御神示の中で、神様は、キリスト教や仏教などについてお諭しくださっておられる。
その一部抜粋をさせていただくと、

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(教書「由来」より)
「現在に於けるキリスト教、仏教その他これに類する宗教は数うるに、いとまがないが、何れも神秘的奇蹟の存在がない。
これらは修養、反省上においては効果的であるが、自己以外に無限の存在もなければ、神秘との交渉も解決し得ない憾みがある。
キリスト在世中、神秘的奇蹟のあったことは事実であり、書類に残されてありながらも、現在の牧師、宗教家はそれを殆ど掴み得ることが出来ず、事実奇蹟がありたるにもかかわらず、それを認めることが出来ず、徒に何かの譬だろうと、現在譬話で片づけてしまう。
孔子・釈迦・親鸞・日蓮の如きは、苦心惨憺の結果、辛うじてその一部を探り、民衆に対し実用化したのであるが、人知の発達した今日では時代遅れの感がある。」

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と神様は仰せになられた。

副教主先生はニューヨークの禅寺で百日修行をされ、最も偉い老師様と「公案」の修行をされた際に、上記の御神示を引用された。

「公案」とは、老師様からテーマが与えられ、そのテーマについて老師様との問答の中で探求していく修行である。

老師様は、「天心聖教の神様と、仏教で言われる無とは、同じである」と言われ、それを公案のテーマと定められた。

その公案は100日修行中に何度かあったが、最後の公案のときに、副教主先生は上記の御神示を引用されて、「天心聖教の神様と仏教の無との違い」について、明確に説かれたのである。

すると老師様のお顔が一瞬にして赤くなり、「行ってよろしい」と一言だけおっしゃって公案が終わった。
後日、老師様は副教主先生のことを、「宗教的天才」と評された。

さて、先程の御神示でお諭し賜っている通り、人間個人の力で神様を知ることは出来ない。

恐れ多くも、宇宙絶対の神様について、人間の我々が知る方法は唯一、神様に遣わされたお方を通して、神様から体験を賜り、神様のことを教えていただく以外に方法はないのである。

 

一信徒である私がこのブログを書くことが出来るのも、神様が、初代様を通して、様々な奇蹟をお現しくださり、数々の御教えを我々信徒に御諭しくださったからである。

 

次回は、「神様は未来永劫、人類を奇蹟をもってお導きくださるのか?」
ということについて書かせていただきたいと思う。