前回は、イスラエル王国分裂後の歴史について書かせていただいた。
今回は、イスラエルの歴代の王の中で唯一、モーセの律法に立ち帰ろうと取り組んだ、「ヨシヤ王」について書かせて頂きたいと思う。
ヨシヤは南王国の16代目の王で、紀元前637年に王位に就いた。
 

モーセの「申命記」に衝撃を受けたヨシヤ王

このヨシヤ王の時代に、神殿から「律法の書」が発見された。
旧約聖書の記述からみて、この書は「申命記」だったと言われている。
「申命記」とは、「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」に続く書で、「モーセの遺言書」と言える重要な書である。

「律法の書」を発見した大祭司ヒルキヤは、書記官のシャファンに「律法の書」を渡し、シャファンはヨシヤ王の前で読み上げた。
その場面が旧約聖書に次の通り記されている。
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王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いた。
王は祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、書記官シャファン、王の家臣アサヤにこう命じた。
「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ。」

(列王記下 22:11-13)
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申命記の内容を聞いたヨシヤ王は、衣を裂くほどの衝撃を受け、祭司ヒルキヤをはじめ5人を、預言者のところに遣わした。
すると神様は、預言者を通して次の通り仰せになられた。
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見よ、わたしはユダの王が読んだあの書物(律法の書)のすべての言葉にしたがって、災をこの所と、ここに住んでいる民に下そうとしている。
彼らがわたしを捨てて他の神々に香をたき、自分たちの手で作ったもろもろの物をもって、わたしを怒らせたからである。
それゆえ、わたしはこの所にむかって怒りの火を発する。
これは消えることがないであろう。

(中略)
あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。
それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。
あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。
わたしがこの所にくだす災いのどれも、その目で見ることがない。

(列王記下22:16-20)
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その後ヨシヤ王は「申命記」の教えをもとに民の信仰教育を徹底して行った。

そして偶像崇拝の祭司を廃し、偶像を焼き捨て、神様のお言葉に従うことを誓い、約350年間行われていなかった「過越しの祭」を復活させたのである。

神様は、そのようなヨシヤ王の忠実な心をお認めになられた。

しかし長年にわたるイスラエルの背信行為を、お許しになることはなかった。
かつてソロモンの神殿が完成された時に、神様はソロモンに対し次の通り仰せになり、戒められた。
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「わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。

今後この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。

(中略)

もしあなたたちが背を向け、わたしの授けた掟と戒めを捨て、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、わたしは与えた土地から彼らを抜き取り、わたしの名のために聖別したこの神殿もわたしの前から投げ捨てる。
こうしてそれは諸国民の中で物笑いと嘲りの的となる。」

(歴代誌下7-13〜20)
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この神様の戒めが、ヨシヤ王の死後、現実となったのである。

南王国ユダは紀元前586年にバビロニアに侵略され、国を奪われた。
そしてソロモンが建てた神殿は完全に破壊され、神殿の膨大な金銀はすべて奪われ、南王国の民はエルサレムからバビロニアに連行された。

神様がソロモンに戒められたお言葉の通り、

イスラエルの民は、与えられた土地から抜き取られ、ソロモンが建てた神殿は投げ捨てられたのである。

神様の絶対愛

王政時代、神様から遣わされた預言者たちが一貫して説いたことは一つである。
「悔い改めよ。そしてモーセの律法に立ち帰れ」という一点。
神様はその一点を求め続けておられたが、イスラエルの民は偶像崇拝に染まり、様々な罪をおかしてきた。
その最初の原因は、ソロモン王が神様の戒めを守らなかったことにあった。

しかし旧約聖書をさらに読み進めると、神様はイスラエルの民をけっしてお見捨てになられた訳ではない。イスラエル民族はバビロニアに連行されて国を失ったが、その後エルサレムへの帰還が許されて神殿が再建された。
そしてその約400年後に、神様はユダヤ民族の中に、イエス・キリストを遣わされた。
その神様と人との壮大な歴史から、神様の厳格さだけでなく、「神様の絶対愛」を感じるのである。
 

神と人との歴史から学ぶ

かつて、第二世教主 島田晴行先生は、聖書を学ぶことは、我々天心聖教徒にとってとても大切であると説かれた。
そしてその理由について、島田晴行先生は次の通りお諭しくださった。
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何故そうしなくてはならないかと申しますと、信仰とはまず神様に対する人間のあり方から出発するものだからです。

従って本当の信仰者となり得るには、天地創造の由来から今日現在までの一貫した神と人との関係を学ばずしては到底なり得るものではないのです。

このような意味で本教信仰者が聖書を学ぶということは、その信仰を真実にみのらせる為に、大変大切なことであります。
(島田晴行先生ご訓話「信仰とは何か」より)

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天心聖教は、キリスト教ともユダヤ教とも違う。

しかし、天心聖教の神様は、かつてモーセ、イエスをお遣わしになられた神様でいらっしゃる。

したがって、神と人との歴史が記された聖書を学ぶことは、とても大切であると教えられている。


歴史を学ぶということは、先人たちの体験から学ぶということだが、それは成功ばかりでなく、失敗からも学ぶということである。
過ちを犯さない人間はいないし、過ちのない歴史など存在しない。
しかし一番の過ちは、過ちから学ぶことをせず、過ちを繰り返し続けることである。


イスラエルの王政時代の歴史から特に感じるのは、

過ちを懺悔して改め、神様のお言葉に従えば、神様はその罪をお許しくださり、道は開かれていくが、改めざる過ちは更なる過ちを生み、累積された過ちは大きな不徳となって子孫に受け継がれていく、ということである。

 

イスラエルの先人たちが残してくれた歴史は、我々天心聖教徒にとっても貴重な信仰的教訓である。

そのことを改めて感じさせて頂いた。