今回と次回の2回にわたり、「神に仕え奉る信仰」ということをテーマに書かせていただきたいと思う。

「信仰」という言葉の定義は、宗教によってそれぞれ違うだろう。

日本人の感覚としては、「あの人の信仰は厚い」と言うよりも、「あの人は信心深い人だ」と言った方が馴染みやすい言葉かも知れない。

この「信心深い」という言葉は、どちらかと言うと信仰対象は問題ではなく、八百万の神々や仏様などの人間を超えた存在に対して手を合わせる、「心」そのものを言う場合が多い。

この「信心深さ」というものは大切であり、初代様は、

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「よく昔から鰯の頭も信心からという諺がありまして、何に致しましても信仰というものは、悪に遠ざかって善に近くなるための信仰であって、信仰する真心がやがて本当の神様に届く時期もあるものです」

(初代様ご訓話「天心聖教概略」より)
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と御諭しくださっている。

「神に仕え奉る」とは

さて、今回のテーマである、「神に仕え奉る」とは何か?

前回引用させて頂いた御神示を、もう一度ここで引用させて頂きたい。
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(昭和11年5月11日に初代様に下された御神示)
「信仰者は先ず宇宙絶対の神に仕え奉らねばならぬ。
そして常に厚く神に仕え奉る時、神は大なる不可思議な力を与えるものである。
即ち、人間社会生活に最も必要なる知恵は無量に与えられ、知恵のみならず財宝は恵まれ、健康法は教えられ、弱きは強く励まされ、荒きは円く柔らげられ、人と交われば慕われ、社会より尊敬せられ、国家国政に参ずれば即ち百年の計を立て崇められるに至るものである。ここに於て初めて人格は完成したるものと称すべきである。」

(第二世教主 島田晴行先生ご訓話「宿命と信仰(続)」より)
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この御神示の「仕え奉る」は、「つかえたてまつる」または「つかえまつる」と読む。

島田晴行先生は「つかえたてまつる」とおっしゃられていた。

「神に仕え奉る」とは本来、「神様に身も心も捧げてお仕え申し上げる」、あるいは「神様に命掛けでお仕え申し上げる」という意味である。


初代様は身命を掛けて神様に仕え奉られたことは、天心聖教の歴史書「由来」から知ることができる。

われわれ一般信徒の場合はどうであるかと言えば、もちろん初代様の信仰に到底及ぶものではないが、ただ神様にお願いするだけの信仰では「信仰」とは呼べないのである。

確かに、信仰に入る動機の多くが幸福を求めてのことであって、神様に救いを求めることは信仰者として正しい。
畏れ多くも大神様は、救いを求める者に対して、偉大な御威力をもって、貧病争などの不幸からお救いくださるのだが、その奇蹟による救いは、神様のご存在を知る信仰の入り口であり、御心を悟るためのお印なのである。

良い教えを聞いて人格を磨くと言っても、悪因縁に振り回されていたら人格向上どころではない。
そこで神様ははじめに信仰する者の悪因縁を除滅してくださり、人格を磨ける状況へお導きくださるとともに、その奇蹟によって「有神の念」を抱かしめ、真の信仰へとお導きくださるのである。

「苦しい時の神頼み」という言葉がある。

苦しい時に神様におすがりすることは、信仰者として間違っていない。

間違っていないどころか、ありのままに神様にお縋り申し上げるべきである。

しかし、「苦しい時の神頼み」だけでは、信仰とは呼べないのだ。

聖書に記された信仰とは

それでは、ここで少し視点を変えて、聖書から信仰のあり方を探ってみたいと思う。

 

実は、つい最近になって気がついたのだが、旧約聖書の中に「信仰」という言葉はほとんど出てこない。
「信仰」という言葉がひんぱんに出てくるのは、「新約聖書」からである。
旧約聖書では、「詩編」と「預言書」の中の数箇所に「信仰」という言葉が出てくるだけなのだ。


旧約聖書で最も重要な、モーセ五書の「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」をはじめ、その後の「ヨシュア記」から「エステル記」までの歴史書に「信仰」という言葉は1つもない。

おそらく、旧約聖書の時代は、「信仰」という言葉がなかったのだと思う。

それでは、「信仰」をどのような言葉で表現していたのだろうか?

神様がモーセに御降臨された時、神様は次のように仰せになられた。
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「わたしは必ずあなたと共にいる。

このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。

あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
(出エジプト記 3:12)
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このとき神様は、「この山で神を信仰する」ではなく、「この山で神に仕える」と仰せになられている。
その他にも「神に仕える」という言葉は、旧約聖書のあらゆるところで登場する。
旧約聖書では、「神を信仰する」ことを、「神に仕える」と表現しているのだ。

では神様は、どのように仕えることを、イスラエルの民に求められたのだろうか?

申命記には、イスラエルの民に対する「モーセの遺言」とも言える言葉が記されている。

その中に、「神に仕える」、または「主に仕える」という言葉が随所に出てくる。
その一部を引用させて頂くと、
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イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。
ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
(申命記10:12)
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もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。(申命記 11:13)
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「神の言葉に忠実に従い、神を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕える」


それが、神様がイスラエルの民に求められた信仰であり、心を尽くして神に仕えるならば、神様は恵みを与えてくださることを約束されたのである。

同じことをイエスも説かれている。
以前にも触れたが、律法学者がイエスに「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と質問すると、

イエスは、

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

これが最も重要な第一の掟である。(マタイ 22:37)

と答えられた。

したがって、

「信仰者は先ず宇宙絶対の神に仕え奉らねばならぬ」

という、神様が求めておられる信仰の在り方は、旧約聖書の時代も、新約聖書の時代も、そして現在においても、全く変わらないのである。

次回は、「仕え奉る」という信仰の在り方について、天心聖教の由来に出てくるお話から、具体的に書かせて頂きたいと思う。