前回の項で、「神様は、人間というロボットをお作りになられたのではない」ということを申し上げた。

そこで今回は、次のテーマに入る前に、中休みとして、「将棋とロボット」ということについて雑談をさせていただきたいと思う。

 

将棋の世界では、2017年にコンピュータが名人に勝った。

AI(人工知能)が将棋の天才を破ったのだ。
そのニュースを聞いて、プロ棋士はいなくなるのではないかと思われた人もいらっしゃるかも知れない。
しかしプロ棋士がいなくなるかどうかは、プロ棋士の対戦を観たい、と思うファンがいるかどうかで決まるのである。

実際に、将棋ファンは少なくなったのだろうか?

その逆で、ファンは増えた。

その最も大きな理由は、若き藤井聡太棋士の出現だった。
そして、もう引退されたが、誰からも好かれる強烈なキャラクターを持った加藤一二三棋士の活躍も大きかった。
この二人の活躍が、将棋を全く知らない人たちをもファンにしてしまったのである。

将棋ファンは、対戦の勝ち負けだけを観たいのか、というとそうではない。
将棋とはそもそもが、頭を使って楽しむ遊びである。
将棋もチェスも、野球も、サッカーも、バスケットボールも、ラグビーも、もともとは遊びでありゲームであって、自分たちが楽しむためのものであった。

しかし、その遊びの領域を超えて、極限まで技術を高めた人たちがいた。

それほど魅力のある遊びだった、ということだが、そうなると、ただの遊びとは迫力が違う。

お金を払ってもその対戦を観たいという人たちが生まれた。

誰が観ても面白い、というものは、法律に触れたり、公序良俗に反しない限り、職業化する事が可能だ。

ファンは、勝ち負けだけを観たいのではなく、能力を極限まで高めたプロ達の真剣勝負と、その中で繰り広げられるドラマを観たいのだ。
まさに、巨人軍の元監督 長嶋茂雄氏の名言「メークドラマ」である。

 

若い方々はご存知ないかも知れないが、1995年に巨人のナインに奮起を促すために長嶋監督が放った言葉である。その時のリーグ優勝は逃したものの、翌年のペナントレースでは、中日ドラゴンズとの11.5ゲーム差をひっくり返してリーグ優勝して見事にメークドラマを現実のものとした。和製英語の造語だが、これほど当時の状況を言い表した言葉はない。

その「メークドラマ」をファンは観たいのである。

 

将棋の強さだけを観たいなら、プロ棋士の代わりにAIの対戦をテレビ放映した方が視聴率がとれるだろう。
また、時速200kmで投球できるピッチングマシンをマウンドに立たせれば、球団は高い年俸を払わずに済む。
芸能人によるバラエティー番組の一企画ならそれもアリだが、そんな試合をペナントレースで誰も観たいとは思わないだろう。


またテレビでよく、技術者の作ったロボット対決が放映されるが、あれはあれで面白い。
なぜ面白いかと言えば、技術者がしのぎを削るドラマがそこにあるからである。
もしもその番組に、エンジニアが一切登場せず、ロボット対決の様子だけがひたすら中継される番組だったら、なんか無気味なだけだ。

そこにドラマはない。


将棋の話に戻そう。
将棋は黙々と駒を指しているようだが、その緊迫した勝負の中にドラマがある。
棋士はある意味アスリートであり、その心中は闘志にあふれている。
勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。
その悔しさをバネにさらに努力をする。
そのような人間ドラマがあるのである。

AI(人工知能)対決も、エンジニアにスポットを当てた勝負ならドラマも生まれるだろうが、機械と機械の勝負にドラマはない。

 

なぜならAIは、そもそも「勝ちたい」と思っていない。
勝っても喜ばず、負けても悔しがらず、将棋を楽しんでいるわけでもない。
ただプログラムされた通り、機械的に計算して動いているだけである。


「AI」とは「人口知能」という意味だが、実際は知能ではない。

知能のように見えるだけで、実際はプログラミング通り計算する、2進法を使った高度な電子計算機である。


では、オリンピックはどうだろう。

オリンピックで我々は何を観たいのか。

生身の人間の真剣勝負と、そこから生まれるドラマを観たいのではないだろうか。

200kgのバーベルを機械が持ち上げるのを誰が観たいかである。

もちろん、選手たちをサポートする役割として、オリンピックにAIを導入することは大いに結構なことである。

また、AIが人間の能力を超えることへの驚異を感じている人もいらっしゃると思うが、よくよく考えれば、特定の分野において、とっくに機械は人間の能力を超えている。

我々が何気なく使っている「電卓」がそうである。
計算能力は、人間よりもずっと早くて正確だ。
 

しかし、自分の能力を超えた電卓を使いながら、電卓に驚異を感じる人がいないのは、便利な道具だと思っているからである。

そう。AIも、人間が、より高度なことを行うための便利な道具なのである。

職人は道具に愛着を持ち大切にするが、それをどのように使うかは、職人自身の感性と言える。

 

だからAIの将棋ロボットも、野球の練習用ピッチング・マシンと同じで、棋士の練習機として使用すれば良いのである。
AIには、過去のありとあらゆる将棋対戦のデータベースが入っているが、昔から棋士達は、書物などで過去の対戦から学び、上達してきたのである。
それがデータベース化されてAIになっただけのことで、練習しやすくなった、と考えるべきだろう。

 

つまり、どんなに科学が発達し、人間のさまざまな能力を超えるロボットが登場したとしても、あくまでもそれは人間の便利な道具に過ぎない。

人間の作った機械はすべて、人間の「想像と創造の力」を補う道具なのである。

 

科学が発展していく中で、AIの登場は必然的な流れだろう。

【想像と創造についての御神示(3)】の項で紹介した、神様が予言された人類未来の姿が実現するその過程において、AIの登場は必要不可欠だと思う。

よってAIの登場は、科学の発展の素晴らしい一歩だと思うのである。

 

科学そのものに善悪はない。

人間が、善に使えば善となり、悪に使えば悪となる。

その善悪の判断は、科学が行うのではない。人間が行うのである。

AIは今、介護などのあらゆる分野で導入されつつあるし、人類福祉に生かせば、世界人類の幸せに大いに貢献するものになるだろう。

 

ただ、AIの導入によって世の中が必要とする労働力の移行については、今後、企業や教育者も含めて、社会全体が考えていかなければならない問題だと思う。