青雲譜62「青雲荘の仲間達」Q
「気になる人達」5-2
その年の白山総合病院の研修生は、舜司一人であった。
しかも、長身の若いドクターである。
白山総合病院内の女性は、老いも若きも、興味津々。
舜司にとって、一気にモテ期到来であった!
院内を歩いていると、周囲の目が痛いほど舜司の背中に突き刺さってきた。
『えッ、俺って、もしかして、本当は、“モテ男”だったのかな?』
正式なドクターとなってからは、“モテ男君”は、山上先生に連れられは、“親不孝橋”を越して、週に2,3回、飲み屋街を闊歩する日々を送ったのである。勿論、数人のナース連れは、当然の事である。
いくつもの飲み屋さんを“はしご”して、いつも、最後は、小さなスナックで、ダンスをするのが、〆になっていた。
ちなみに、親不孝橋とは、昔、この橋の向こうに、遊郭街があった名残であるらしい。
しかし、飲み屋さん通いは、下戸の舜司にとっては、山上先生との付き合い上の事であり、舜司本人にとっては、毎日が勉強の連続で、不安な日々を送っていたのが現実である。
胃の造影検査(二重造影法)、胃内視鏡検査など技術の習得は勿論であるが、一番、頭を痛めていたものは、夜の当直であった。
診断能力もないし、処方する薬の名前さえも、何一つ知らないのである。
一人で当直などできるはずもない!
頭痛時には?発熱時は?腹痛時には?眩暈時には?嘔気時には?下痢の時には?急性腹症の時には?喘息発作の時には?心筋梗塞疑い時は?脳卒中疑いの時には?・・・いったい、どうするの?
当然のことだが、エコー、CTスキャン、MRIなど、ない時代だよ!
しかし、現実には、手元の当直予定表には、名前が載っているのである!
急遽、山上先生から、処方の虎の巻として、簡単な処方集を伝授してもらった。そして、それでも、困った時は、山上先生に電話連絡し、アドバイスをもらえるようお願いしておいた。
まあ、1年中、病院の中をウロウロしており、暇なときは、山上先生のお供で、飲みに行っていたと言う事である。
こんな中、当直したり、他所(よそ)の先生の当直にも付き合っていたりして、分かったことがある。
夜間、来院する方のたいていは、同じ人たちであったのである。
カルテをペラペラめくれば、以前にも、同じような症状で、受診しているのである。
その時の処方や、“今日の治療指針”などの処方例なども参考にすれば、何とかこなせるようになったのである。
病院生活にも慣れてきた頃、検査も、診療も、少しながら向上してきていた。
そんな当直のある日、真夜中に、枕元の電話が鳴った!
6Fの第2内科病棟からである。
「621号室の患者さんが急変しました!お願いします!」
駆け付けると、酸素マスクをした患者さんで、胸郭は動いておらず、口は開いたままであった。
瞳孔反射なし。心音聴取できず。心電図モニター、フラット。
アンビューバック!
心マッサージ!
10数分間やった後、念のため、指先で、手首の脈拍をとってみた!
『ギョっ!微かに脈が触れる!』
あわてて、指を引込めた。
もう一度、指先をこすってから触れてみた。
『なんでだ?おかしいな?』
確かに、微かに、指先にドクン、ドクンと脈拍を感じているのだ!
指を、こすっても、こすっても、感じてしまう!
心電図モニターの波形を、再度、確認!
やはり、フラットである。
なのに、プルス(脈)が触れている・・・?
頭の中が、グルグル回転した。
付き添っていたベテランの看護婦さんは、舜司の対応を不思議に思ったことだろう!
『この先生、いったい、どうしちゃったのかしら?』
『何を、あたふたしちゃってんだろう?』
舜司は、目を閉じ、一人、大きなため息をついた!
『そう!』
『この患者さんは、確かに死んでいるんだ!』
心の中で、自分に言い聞かせた。
再度、ゆっくり脈を触れてみた。
『うっ、やっぱり、微かに感じる!』
『でも、これは、違う!違う!』
『緊張しているからだ!自分で、自分の指先の脈を、感じ取ってしまっているんだ!』
死は、確信しているのだが、舜司の心は、困惑しきっていた。
『俺ごときが、この人の生死の判決をしていいんだろうか?』
『俺が、死と言った途端、もし、生きていても、酸素は外され、生きる望みは、完全に絶たれてしまうのだ!』
『でも、でも、この方は、確実に、亡くなっているはずなんだ!』
『心音も聞こえない!頸部の脈も蝕知されない!瞳孔も散大!EKGはフラット!』
『仕方ないのだ!俺ごときでも、死の宣告をしなければならない!』
心の整理がついた。
「ご臨終です!」
「いろいろ手を尽くしてみましたが、回復できませんでした。申し訳ありません!」
「少し、処置をしますので、部屋の外でお待ちください!」
付き添っていた家族に、深々と、頭を下げた。
しばらくの間、看護婦さん達のする死後処置を見ておこうと、舜司は、部屋に残っていた。
その時、突然、亡くなった方の口から、「ハーア!」と、息が漏れ出て来たのである。
『えッ、生きてんの?』
舜司は、ドキッとして、看護婦さん達と、顔を見合わせた。
でも、看護婦さん達は、平静そのもので、直ぐに、処置する手を動かし始めた!
「ねえ!もしかして、まだ、生きてんの?」
「そんな訳ないでしょう!先生!」
「人工呼吸したんで、筋肉が緩んで、肺や胃の中に入ってた空気が、一気に出て来たんですよ!」
「へえー、そんなことがあるんだ?」
「じゃあ、充分、時間をおいてから、家族は入れた方がいいよね!」
「だから、私たちは、死後処置をきちんと、時間をかけてやってるんですよ!」
「そうなんだー!また、息、吐いたら、家族の人も”ビックリ”だもんね!」
当直室に戻ったら、ドッと精神的疲れが溢れ出て、ベッドの上に倒れ込んでしまった!
これが、舜司が、たった一人で、初めて患者さんの死に立ち会った時のエピソードである。
これ以後は、勿論、臨終に立ち会うことになっても、慌てることもなく、医師らしい立ち振る舞いで、対応するようになった事は言うまでもない。
山上先生に“飲み”に誘われない限りは、病院に箱詰め状態!いつでも、急変時には駆け付けて患者さんを診察していた。
お年寄りの患者さんには、特に人気があって、“是非ともお孫さんを嫁にもらってほしい”と、幾人の人からも声がかかってくるモテぶりであった。
詰め所の看護婦さんにも、モテモテなのは当然なのであるが、中には、好感持っているがゆえに、古株の看護婦さんからは、軽く“いびられる”こともあった。
5F第1内科病棟にあった“検査の手順”という手引書を手にしたら、ボロボロになってて、破れているところさえあった。
早速、新しい手引書に作り直そうと、舜司は提案した。
ところが、年配の看護婦さん達は、自分たちが、否定され、ケチをつけられてると思ったようなのである。
舜司自身も、新参者であり、あまり検査法に熟知していなかった。だからこその、勉強も兼ねた提案だったのであるのだが!
しかし、参考にした詰め所の“臨床検査法”という書物は、古すぎた。
残念なことに、舜司は、その書物を使って、今の検査手順は作成されているものとばかり思い込んでしまっていたのだ!
肝・胆・膵の診断法の一つとして、十二指腸液の採取法が載っていたのである。
早速、急性腹症で入院した患者さんの検査項目に入れてみた。
しかし、看護婦さんたちは、検査をやってくれないのである。
「そんな検査したことがありません!苦しめるだけでしょう!」と、反論してきたのである。
「でも、あの検査の本にあるんだよ!出来るから書いてあるんでしょう!やってみようよ!」
「ただ、細い管を呑み込んでもらうだけなんだから、大したことではないでしょう!」
「先生は、マーゲン・ゾンデ(胃管チューブ)呑んだことがあるんですか?」
「えッ!」
「結構、苦しいんですよ!先生も、一回呑んでみたらいいんじゃないですか!」
「ええッ!」
「わかった!わかった!じゃあ、僕が呑んだら、やってくれるって言うことだね!」
「ようし、やってやろうじゃないか!」
舜司は、意気込んで、病棟の処置室に入り、椅子に座った。
「先生!本当にやるんですか?」
何人もの看護婦さんが、不安そうに、心配そうに顔色を伺ってきた。
「やるよ!どうすればいいの?」
「このゾンデの先に、キシロカインゼリーをつけるんだよね!」
「鼻から、これを入れて行けばいいんでしょう!」
・
・
結果は?・・・・
惨敗!
とても、呑みこめるもんでは、なかった!
嚥下反射が強くて、のざえ(えずい)てしまい、涙、ボロボロ!鼻水ダラダラ!
悲惨な状態になってしまった!
「降参!降参!」
「無理だわ!」
「診断的価値が少ないんだったら、やんなくてもいいわ!」
「参った!中止!中止!」
「自分でやらなければ、患者さんの苦しみって、わかんないでしょう!」
「先生にはね!患者さんの気持ちを汲(く)める先生になってもらいたいんですよ!」
「そうだね!大変なんだね!」
もっともらしい“教え”を、看護婦さん達から、コンコンと教え込まれる舜司であった。
後日談
でも、消化器外科に移ったら、術前処置として、マーゲン・ゾンデをよく留置したよな!
看護婦さんも、簡単に挿入するし、舜司自体も、何の躊躇もなく、安易に挿入してたんだがなー!
自分で、呑み込もうとしたから、ひどかったのかなー?
そう言えば、胃内視鏡検査の時も、ひどかったなー!
やっぱり、すごく、のざえる(えずく)んだよなー!