青雲譜38「注文の多い学生アパート」T

「長い髪の少女」D

「ドン、ドン」

「おい、沖田!」

霜山が、勢いよくドアを開けて入ってきた。

「沖田!やるねー!」

「どうだった?秋田の娘は?」

「えッ?どうって、なんだよ?」

「とぼけても無理だよ!」

おんなの娘連れ込んだんだろう!」

「すべてお見通しなんだよ!」

「ほら、これは何だ?沖田?」

「えッ?」

「このマグカップ!真っ赤な口紅べっとりじゃん!」

電気こたつのテーブルの上に、呑みかけのコーヒーカップが、行儀よく並んでいた。

確かに、片方のカップには、下唇の形くっきり!口紅の跡。

部屋に戻るや否やの突撃であった。

何一つ、片付ける余裕もなかった。

正直に、告白せざるを得ない。

「ふーん!3,4時間も一緒に居たんだぞ!何もないはないだろう!」

「どこまで行ったんだ?ほんとは!」

「えッ、どこまでって、何もないよ!」

「はあ?嘘つけ!正直に言えよ!」

「本当に、何もないんだよ!ただ、雑談して、本を1冊貸してやっただけだよ!」

「ええっ!お前、嘘だろう!」

「せめて、キスぐらいはしたんだろうな?」

「いいや、してないよ!」

「えッ!」

「“おんなの娘”が、部屋に来てるっていうのに、手も握らず、抱きしめもせず、キスもせずってか?」

「呆れた奴だな!・・・参ったな!」

「いいか、沖田!」

「“おんなの娘”が、男の部屋に入るってことはな!O.Kってことだろう!」

「何もしなかったら、かえって、失礼だろう!」

「えっ、そうなの!」

「当たり前だろう!魅力がないんだって、侮辱してることになるだろう!」

「まったく、田舎もんだな!沖田は!“”がつくよ!」

「今度来た時は、キスくらいはしてやれよ!」

「うーん?・・・そうなのか!」

「ああっ?参ったな!・・・今度、会うなんて無理だわ!」

「えっ?・・なんでだよ?」

「俺さ、まじに、名前も知らないし、住所も電話番号も聞いてないんだよ!」

「まったく、何してたんだろう?一体全体?」

「連絡しようにも、何も出来ないよ!馬鹿みたいだな!」

「ええー!じゃ、川反に飲みに行って、偶然、会うのを待つしかないってか?」

「本当に馬鹿じゃないか!お前!ひど過ぎだよ!」

「あーあ!参ったな!沖田には!」

「ほんとに、つまんねーな!あーあ・・つまんねー!」

霜山は、あきれ顔をして、肩を落としたまま、手すりを、ポーンと飛び越え、自分の部屋のドアを、バタンと閉めてしまった。

 

三吉アパートは、北向きの、コの字型の2階建てアパートである。

内側が回廊で繋がっているように見えたが、東側の角の所には、30cm程度の間隙があり、別棟造りになっていた。後で、増築したのだろう。

この時、舜司は、1階の西側の部屋から、2階の東棟、一番北端の部屋に移っていた。

しかし、ここで、世にも恐ろしい、秋田の極寒の冬を体験する事になってしまうとは!

北側に1枚ガラス戸の窓が一つあるだけの、6畳一間の安造りの部屋である。

北風に吹きさらされ、ストーブを消せば、外気と同じ冷凍庫状態になってしまうのだ。

朝、目を覚ますと、「あっ、痛い!」

何か硬い物が、顔に当たるのだ。

目を凝らして、ゆっくり首を回すと、布団の端は、霜におおわれ、ゴワゴワに凍りついた固形物へと変化していたのだ。

更に、更に、恐怖はつのっていった!

寝てる最中、急に頭が痛くなるのだ。

深部に、シンシンと締め付けるような鈍い痛みが走る。

『ああー、脳みそが凍ってしまう!』

”医師の卵”とは言え、さすがに、死の恐怖に苛(さいな)まれた瞬間であった。

最終的には、毛糸の帽子をかぶり、襟巻を巻き、完全防寒対策をして、寝床に入り、冬を凌ぐしかなかった。

一方、霜山の部屋といえば、南側の2階の角にあり、構造上、舜司の部屋よりは、ずっと凌ぎ易い立地条件にあった。

窓は、南側である。北側には、回廊があり、壁があり、見事に、北風は、遮られているのだ。

それ故、凍えることは、絶対に、有り得ない!

三吉アパートには、通学の往来上、多くの同級生が、頻繁に訪れていた。

当然、皆が通る回廊には、1メートル高の手すりが、安全対策として張りめぐらされていた。

この回廊は、霜山の部屋の前で、直角になっている。

しかし、法規上のために、結果としては、2重の手すりで遮断されてしまっていたのである。

これは、入居者にとっては、“行き来”するうえで、障害物になっていた。

この手すりを、霜山は、ポーンと、軽々と、飛び越えて行ったのである。

霜山は、東京出身!

しかし、風貌は、ひげ面で、熊さんタイプ!

それなのに、フルートを吹いたりするのだ!

田舎もんの舜司からしてみれば、得体のしれない人種なのである。

舜司は、霜山に興味はあったが、何より一番なのは、一緒に話をしていると、妙に落ち着くことであった。

そして、似たり寄ったりの医学生の中では、一種のバンカラ風の雰囲気を醸し出した、ちょっと大人びた雰囲気のする人間でもあった。

また、同時に、何とも言えぬ知的教養における優秀さ!と、一種のストイックさ!とを、併せ持った、ひとランク上の人間にも見えていたのである。

ある晩、生理学の講義内容で、疑問に思っていた個所について、どんな風に解釈しているのかを問うてみたことがある。

舜司は、ビックリ!した。

彼は、受け売りでなく、自分なりの言葉で、解釈の筋道を、簡潔明瞭に説明したのである。

舜司は、その時、自分とは違う異種の人間性を感じ取った。

『そうか!“出来る奴”って言うのは、知識をうまく“整理整頓できる奴”って言うことなんだ!』

それからというものは、時折、霜山の所に、たわいもない話をしに訪ねて行くようになった。

「沖田!」

「俺たちはさ、時間って言うものは、ないようでもな!結構あるんだよ!」

「今、俺はさ、高校の勉強をしてんだよ!」

「えッ、高校の勉強?」

「そう!教育テレビでな、「高校講座」っていうのを、やっているだろう!」

「うん、やってるよ!」

「東大?いや、今は、東工大か?竹内均教授が、物理やってたよね!あれ、見たことあるけど、今見ると、結構、わかりやすいんだよね!」

「そう、そうなんだよ!」

「東大の有名な教授が、高校の講義をしてくれてんだぜ!」

「だから、すげーわかるんだよ!」

「一流の教授の授業というものが、一番わかりやすい授業なんだよ!」

「だから、一流でない人が、教える授業であればあるほど、わからない授業になってしまうんだよ!」

「つまりは、卓越した人ほど、迷うポイント、悩むポイントというものを、把握できているってことだな!」

「沖田もさ、NHKのラジオ講座、テレビ講座なんかで、興味あるものがあれば、やってみるといいよ!ためになるぞ!」

「俺はさ、NHKもすてたもんじゃないなって!感心してんだよ!」

「そうだね!」

「俺もさ、ついつい見入ってしまったことがあるから、その点は、納得だな!」

「よくわかるよ!」

「ちなみに、今は、何に凝ってるの?」

「高校講座一般ってこともないだろう?受験するわけでもないし!」

「あっ、俺か!俺はさ、哲学だよ!」

「哲学入門って言う講座だよ!」

「月刊誌も出ているんだ!ようく理解できるんだな、これが!」

「いい講座だね!この歳になって、ほんとに、NHK見直してんだ!」

「へー!哲学か!」

「霜山って、本当は文系タイプなの?」

「まあな!哲学では食っていけないだろう!医者やってさ、哲学的思考にふけるんだよ!」

「なるほど、生活基盤を整えて、「自分のやりたいことをやっていこう!」って言うことか!」

「そう!その通り!俺には、俺のやりたいことがあるってことだよ!」

「そうか!・・よし、わかったよ!」

「俺も、これからじゃなくて、今からすぐ取り組んでみることにするよ!ありがとう!」

 

舜司は、早速、加賀谷書店に行った。

NHKのラジオ講座、テレビ講座?』

『何しよう?英会話か?ヒアリングも不得手だし、英語苦手だからな!』

『よし、「やさしい英会話」にしよう!』

『あれっ、「毎日ライフ」?』

『何だ!これ?』

『ふーん!病気の解説か!』

『へー、わかりやすいな!素人向けか!いいね!』

『これも買って、勉強してみるか!』

 

果たして、その結果はどうであったろう?

英会話の講座を継続することは、困難の極みであった。

放送時間帯を守ることが難しいのである。

日常生活で、何かに気を取られていると、ついつい、放送時間帯を見逃してしまう。

英会話の月刊誌だけが、新品のまま、机の上に定期的に積まれていった。

 

この歳になっても、一向に、英会話の腕は上がっていない。

それ故、当然と言えば、当然のことだが、

『今までに、』

『趣味として、』

『マスターできたものは?』

『・・・・・・・・・・・何一つとしてない!』

結果としては、完敗であった!

『残念!』

 

一方、「毎日ライフ」は、とても為(ため)になる雑誌であった!

医療内容が、わかりやすく解説されており、最新の研究内容まで網羅されていたのだ。

医学生に、また、臨床医にとっても、打って付けの雑誌であった。

しかし、数十年前に、扱うジャンルの大幅変更があり、医療解説本ではなくなってしまっている。これも残念!