青雲譜35「注文の多い学生アパート」Q

「ながい髪の少女」A

土曜の夕方、川反は、人、人で溢れていた。

道路幅は、結構の広さなのである。

でも、ここが、人で溢れているのだ。

行きかう人でごった返し、ダックスコートを着た舜司は、人にぶっつかりながら進まねばならなかった。

喫茶店「倫敦」のドアを押して入った。

「カラン、カラン」

満員に近い状態であったが、入り口の見える席が、偶然空いていた。

「連れが来るので待たせてもらいます!とりあえず、コーヒー一つ!」

「カラン、カラン」

入り口の呼び鈴は、ひっきりなしに音を立てていた。

舜司は、その都度、頭を上げては、「違うな!」「フー!」ため息の連続であった。

約束の時間は、もう、既に、30分以上オーバー!

かれこれ1時間近く経っただろうか?

コーヒーカップの底は、茶色リング!すっかり乾ききっていた。

店員の視線が、やたら、チクチク胸に刺さってくる。

「やっぱり、芹沢さんの言うとおりだ!馬鹿をみたな!」

舜司は、「フウーン!」と大きな深いため息をついて、ポーズで読んでいた本を閉じた。

不機嫌そうに席を立ち、不愉快そうに会計を済ませ、不満げそうにドアを押して外に出た。

外は、相変わらず人の渦(うず)である。

『よくもまー、こんなに酒呑みがいるもんだ!』

舜司は、呆れるとともに、ビックリして、人の群れを見渡した。

『あれ!長い髪の美人が!人をかき分け、入り口に向かってくるぞ!』

「やあ!」

「よかった!間に合ったわ!」

「やっぱり来てくれたんだ!」

「もう、来ないと思って、帰ろうとした寸前だよ!」

「ごめんなさい!抜けれなかったの!」

「本当にごめんなさいね!今もネ、時間ないの!すぐ、行かなくちゃならないの!」

「明日なら、埋め合わせできるから!明日の朝、9時に、ここに来て!」

「待ってるから!必ず来てね!」

「約束よ!」

「えッ、・・ああ!わかった!」

彼女は、踵を返すと、すぐに雑踏の中に消えて行った。

舜司は、キツネに包まれたような感じで、暫く、ぼーっと突っ立ったまま、人の群れを眺めていた。

その時の舜司の顔ときたら、『でれーっとした顔してんじゃないよ!』と、言ってやりたいほどの喜び様だったのである。

 

舜司は、既に、1年生の春休みに、車の免許は取得していた。

「解剖で夜遅くまで大学に残っているから、どうしても車が必要なんだよ!」と、適当な言い訳をして、この頃、両親と兄に、舜司は、車の購入をせがんでいた。

でも、本当に、秋田の冬は、通学が大変であったことは、事実である。

1年間だけ、母親が、放置されていた2反歩の田圃を借りて、米作りをして、お金を作ってくれること、そして、また、足りない分は、兄が、貯金をはたいて工面しくれることで、ようやく了承を得ることができていた。

こうして、舜司は、中古ながら、ダークグリーンのトヨタ“スプリンター”を、手にすることが出来たのである。

このスプリンターに乗って、翌朝、舜司は、彼女を迎えに出向いたのである。

 

朝の川反は、夜とは真逆である。

紙屑が、散乱し、風に飛ばされていく。

人っ子一人いない!

スプリンターが、静かに走る。

「倫敦」の前近く、舜司は目をパチクリさせて、彼女を探した。

『何処に居るんだ?』

『また、どうせ嘘なのかな?』

『あっ、居る!フーッ!』

入り口近くで、飛び出た壁の裏に、ベレー帽をかぶった彼女が、壁にもたれるようにして立っていた。

気付いた彼女は、乗り慣れているように、素早く、助手席に乗ってきた。

「待った?」

「ううん。」

「どこへ行く?」

「私、医学部の校舎に行ってみたいな!」

「えっ、何にもないよ!基礎校舎と体育館があるだけだよ!」

「でも、見たいな!普通、絶対に行ける所じゃないじゃない!中に入れないかな?」

「わかった!わかった!とにかく行ってみようか!」

「やっぱり、駄目だ!みんな鍵かかってるよ!」

「ようし!ダメもと、教務に誰かいるだろう!頼んでみるか!」

「あのうー、3年の沖田なんですが、第1講義室に忘れ物したんで、開けてもらえませんか?」

「アッ、え?・・・うーん、困ったな!」

「うーん!・・・わかった!特別ですよ!普通は、開けないんですからね!」

「帰る時は、声をかけて下さいヨ!閉めますので!」

「はい!わかりました!ありがとうございます!」

 

「へえー、ここが教室なの?」

「そう、階段教室になってるんだ!どの教室もこうだよ!」

「学生全員が、黒板やスライドが良く見えるようにって、考慮されてんだよ!」

「沖田さんが、ここに座って、こうして講義受けてんだ!すごいなー!」

「すごくなんかないよ!ここで、寝てんだよ!ほとんどね!」

「嘘だー!医学生なんでしょ!真面目でなかったら、入ってこれないじゃない!」

「中には、少し、だらけているのも居たっていいじゃん!」

彼女は、長椅子に座って、愛撫しているかのように優しく机の表面をなでていた。

そして、黒板の方を、ジーっと見つめては、うなずくように、頭(こうべ)をゆすっていた。

「もう、出ようか!遅いと、変に思われちゃうから!」

「そうだね!怒られちゃからね!」

 

「こっちは、解剖室だよ!」

「ほら、ドアの上に書いてあるじゃん!」

「ここもちゃんと、鍵かかってるな!」

「こっちは?」

「そっちは、臨床講義室と臨床研究棟に繋がっているんだ!」

「でも、行けないよ!ほら、「関係者以外立ち入り禁止」立札が置いてあるじゃん!」

「あら、本当だわ!」

「帰ろう!帰ろう!」

「まだ、附属病院も外来診療棟も、何にも出来てないんだから!」

 

体育館も、理髪店も、食堂も、全部閉まっていた。

「ほらネ!何処も入れないだろう!」

「まーだ、本当に、何にもできてないんだよ!」

「でも、校舎も見れたし、教室にも入れたし、満足!満足!いい経験だわ!」

「そうーかなあ?変なの?何にもないのにさ!」

 

「僕のアパートに寄ってく?この途中にあるんだ!すぐだよ!」

「えっ!」

「うん!寄ってく!寄ってく!」