青雲譜33「注文の多い学生アパート」O
「僕の脚は、凧の足」1
舜司は、ゆっくり目を開き、自分の手、脚を見つめた。
脚は、薄っぺらで、ヒラヒラした細長い紙のようであった。
不自然には思えたのだが、自分の姿は完全に見ることはできないのだから、こんなものか!と、あまり深く考えず、悠々と浮かんでいた。
『そう!僕は、空中に浮かんでいる!』
暖かいそよ風を顔に受けながらとても気持ち良く、フワフワと風に乗っているのだ。
眼下には、無数の凧が浮かんでいた。
数えきれないほどの凧の数である。
はるか下の台地では、両親が微笑みながら舜司を見上げ、手を振っていた。
父親は、長靴を履いて、腰紐を通した茶色の外人用コールテンコートを上着代わりに羽織っていた。長身なので、誰よりも目立っており、すぐにわかった。
母親は、定番の“もんぺ”姿に、頭は手ぬぐいでの“姉さんかぶり”、父親に寄り添い、一生懸命に手を振っている。
『おっと、雨が降ってきた!』
『でも、大丈夫!油紙なのだ!』
破れそうなら、唾液を着けて、予備の紙を張り付ければいい!
舜司は、脚を漕いで、上へ上へと少しずつ上昇していった。
浮かんでいる凧は、以前よりはるかに減っているように思えた。
『でも、まだ、あんなに沢山、上の方に浮かんでいる凧があるじゃないか?』
舜司は、悔しくなった!
『上の方の凧は、もっとここより気持ちよさそうじゃないか?』
『ようし、もっと、もっと、高く上がらなきゃ!』
しかし、脚を、いくら漕いでも,漕いでも、舜司の体は、あまり上昇してくれなかった。
『何故だよ?』
『何で上がらないんだよ?』
『あれー・・・?』
『あいつらの足の紙は、同じもんじゃない!こんなにいい紙なのか!』
『テカ、テカのナイロン製じゃないか!』
『油紙じゃないんだ!』
『雨にあたっても、破れないんだ!』
舜司は、悲しくなった!
『無理だよ!素材が違うんだもの!』
『何でだよ!くそうー!ずるいなー!』
『父さん!母さん!なんでナイロン製にしてくれなかったんだよ!』
『これ以上は、上がらないよー!無理なんだよー!油紙じゃ、破れちゃうんだよー!』
『悔しいよー!』
下の台地には、まったく、声が届かない。
両親は、嬉しそうに、ニコニコ手を振るばかりである。
そればかりか、小、中学の恩師の先生方も、同級生たちも、嬉しそうに手を振っているのだ。
舜司は、自分の思いと、他人の思いには、これほどの差があるのかと、身を持って分かった。
このシチュエーションが続く限りは、油紙の足なのだから、舜司は、当然、不快極まりない状態のままのはずである。
しかし、不思議なことに、舜司には、妙な安心感と、わずかな心地よさを、体に感じ始めていたのである。
『ようし、ここらで、いっぱい体を捻って、泳ぎまくり、あたりを見回してみようっと!』
『へー、こっちから見ると、あの山は、こんな形をしているのか!美しいもんだ!』
舜司は、無性に絵を描きたくなった。
『ようし、後々のために、スケッチしておこう!』
夢中でスケッチしまくった。毎日、毎日、描けるだけのスケッチをしまくった。
時間が経つのも忘れて描き続けていた。
気づいたら、あっという間に長い年月が経ってしまっていた。
本当に、光陰は、矢の如し!だ。
舜司は、目の前のクモの糸を手繰り寄せては、自分の体にくっつけ、クモの巣状のバックを構成した。そして、そこに、スケッチしたものを次々に張り付けていたのである。
膨大な量のスケッチは、小旗のようにパタパタ音を立ててなびいていた。
見上げる台地からは、舜司の周りには、後光がさしているのではないか!いや、あれは、光背というものじゃないか!と、拍手喝采の嵐が沸き上がってしまう始末であった。
『あーあ、俺はいったい何をしたって言うんだろう?』
『まともな絵なんか一枚も描いていないし!作品と言えるものなんか何もない!俺の人生は、徒労に終わってしまうのか!』
『なのに、台地では、舜司は凄いことをしてるな!と、称賛している?』
『時間がなさ過ぎるんだよ!俺は、これから、本物の絵を描かなくては!』
『あの高さから見える世界を、絵に描いて、両親に見せてやらなくちゃ!』
『うーん、素晴らしいな!本当の世界って、こうなのか!信じられないな!』
『ほんと!舜司!本当にすごい世界だね!』
両親に、舜司の体感した世界を見せてやり、本当の喜びを味わわせてやりたかったのだ!
舜司は、人生の意味が初めて分かった!
何を目指して頑張って生きてきたのかが、初めて分かったのだ!
『偉人になりたくて生きて来たのではない!』
『ノーベル賞をもらいたくて生きてきたのでもない!』
『大富豪になりたくて生きてきたのでもない!』
『勿論、美女や財宝を手に入れたくて生きてきたのでもない!』
“ただ、ただ、両親に喜んでもらえることをやってあげたかっただけのなのだ!”
“ただそれだけに、生きて来たようなのである!”
なのに、父親は、3度目の心臓発作で亡くなった。
1日目。朝方、ナースコールあり。病室に行く。頻脈性発作。呼びかける。反応あり。脈戻る。
2日目。朝方、ナースコールあり。病室に行く。VPCの混在した心房細動性の頻脈性発作。低血圧。意識なし。アンビューバックでの人工呼吸。血管確保。メキシチール、ステロイド投与。胸部叩打。呼びかける。反応あり。呼吸回復。意識回復。脈戻る。
夜、父親、テレビを見ている。
「親父!おふくろは?」
「家に帰した。疲れてるようだから、家で休めって帰した!家も心配だから!」
「えっ、じゃ、誰も居ないのかよ?・・なんなんだ?」
「じゃ、俺が傍に居ようか?」
「大丈夫だ!心配ない!お前も宿舎でゆっくり休め!大丈夫だから!」
「・・・そうか!」
「・・・そうだね、今夜は大丈夫そうだね!」
「変だったら、すぐ、ボタン押してよ!」
「アア、・・そうする!」
3日目。朝、ナースコールあり。
『またかよ!でも、すぐ戻るさ!』足取りは、妙にゆっくりだった。
「どう、どんな具合?」
「・・・・・」
『えッ、駄目じゃん!この顔じゃ、アウトじゃないか!』
「挿管!心臓マッサージ!ボスミン!」
『ああ・・、駄目だ!くそ!くそ!』
『甘かった!一度あることは三度だろ!なのに、なんで、軽く考えたんだろう?』
『傍に居てやればよかった!なのに、なんで?』
『不思議だ!傍に居てもらいたくないのかな?なんて、感じてしまった俺は、なんて愚かなんだ!』
怒りが生じてきた。胸を叩いた。蘇生仕様じゃない!怒って叩いた!
『親父!このー!なんでだよ?』
『死ぬなよ!嘘だろう!目を覚ませよ!戻って来いよ!くそー!くそー!』
頭が、白くなった。
絶望だ!病室がしらけて見える!
「沈黙!」という字が、静寂に包まれた病室の中をグルグル回転していた!
この世から親父が消えた!消滅した!
前立線癌を患っていたとはいえ、早すぎる。
もっと、もっと、長生きしてほしかった!
享年79.実年齢78歳。
夜。通夜のため、実家へ向かっていた。
東村のゴルフ練習場付近、右へカーブしている。
突然、腹の底から、大きな怒りが沸き上がってきた!
車の中で、あらん限りの大声を上げ、吠えまくった!
「ウワアオオー!」
同時に、ものすごい勢いで、寂しさが全身に覆いかぶさってきた。
『もう二度と、親父には会えないんだ!絶対に!絶対に!』
「ウワアオオー!」
『絶対の無だ!絶対の無だ!真っ暗だ!』
『”なくなる”って何なんだ?消えるって何なんだ?・・・真っ暗になるってか?』
『ああ、恐怖で胸がつぶされそうだ!』
舜司の眼下には、霧が沸き上がってきた!
瞼をパチパチするうちに、辺りは真っ白に!
舜司は、急いで、ふーふー息を吹きかけた。
凄い風圧だ!一気に、霧は吹き飛んで行った!
『あれ・・?』
『親父がいない!』
『おふくろの傍で、いつも手を振っていたはずなのに!』
『消えてしまった!』
あっという間の出来事だった。
それからというものの、二度とおふくろの傍に親父の姿を見ることはなかった。
しかし、この後も、舜司は、相変わらず、脚をばたつかせては、空高く飛び続けていた。
母親も、いつも通り、手を振って嬉しそうに見上げてくれていた。
光景は変わらないが、舜司の心には、今までとは違う変化が生まれていた。
それは、生きるということに対する、虚無感、絶望感、諦観、無意味感、阿保らし感、馬鹿らし感、・・
『俺の人生は、ただ、ただ、空高く、風に乗って、落ちないように必死に飛び続けているだけの人生だって言うのか?』
『何も作らず。何も残らず。・・・』
『空高く飛ぶ凧が、落下しても、空には何も残らない!無だ!』
『後には、青空だけが、悠々と広がっているだけなんだ!』
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