このブログは

①周波数の観察

②思考を止め、左脳優位から右脳優位へと転換

を8名で行っている実験記録

 

私たちの現実は私たちの身体を創っている「素粒子」が振動する周波数と同じ周波数の人や出来事が引き寄せられることにより創られている。

日常でどのような周波数を使っているのか?を感情や出来事から「観察」し、使っている周波数を手放していく。

それによりどのように現実創造に変化が起きるのか?

 

また、私たちは一日に6万回行っているという無意識の思考「自動思考」により好ましくない周波数を放ち、好ましくない現実をループしている。そこで自動思考を意識的に止め、「今ここ」に集中することで周波数にどのような変化が起きるのか?

そして、左脳が行っている自動思考を止めることにより左脳優位のシナプスが無くなり、右脳優位のシナプスが発達する。右脳は「潜在意識」「源」と繋がっているため日常が右脳優位になれば潜在意識、源からのメッセージを受け取りやすくなり、羅針盤に沿った道を生きられる、創造できるのではないか?

を実験、検証していく実験記録ブログです。

 

 

剣山から帰りました。

そこで改めて気づいたこと。

 

 

問題を作り出しては、解決する。

この「感情ジェットコースター物語」を楽しんでいるだけだと。

 

もちろんその時は楽しむ余裕はないし「イノチ」の存続に影響するほど本気で悩んでいるのだけれど、

私も幼馴染が引くくらい人生ハードモードを選択してきましたが、

今もこうして生きているのは何かしらの方法で「解決」してきたからで。

 

問題を作り出しては、解決する。

 

実はその遊びがしたかったのかも?と気づき、

 

この繰り返しそのものから脱する。

この在り方そのものを手放す。

その創造の癖から手をひく。

 

それには、やっぱり右脳回帰だよな〜と。

 

 

昨日の剣山に参加いただいた実験グループのメンバーの一人が頂上の展望台で・・・

高いとこ怖い〜

立てん〜

これ以上は本人の名誉のためにも伏せますが、

 

「高所恐怖症だとは・・・何故来た?」

私の脳内は

盛大な「?」

今年一の「?」

剣山が高いこと、わかってたよね?

 

まあ、それは置いといて、彼女の中の「恐怖」の体感を知るには絶好のチャンス!

この体感が「恐怖」です、と。

 

さらにその日、かなりの恐怖を感じる夢を見たそうで、彼女にとっては「恐怖祭り」だったわけですが、

その帰りの車内で、彼女のお子さんからTEL

「子供にラーメンのスープがかかった」

「子供が服でかぶれた」

ほぼ同じタイミングで、お孫さん二人がそれぞれ何かしらトラブルがありお子さんから母親である彼女に「どうしたら?」とアドバイスを求める内容。

「病院へ・・・、今日お風呂は・・・」等々、先ほどの高所恐怖症の彼女とは別人のようにテキパキと指示。

さすが母は強し。

 

さて、意識が現実化する世界、ほぼ同時にお子さん二人からアドバイスを求められる電話があった彼女「なぜこの現実を、今、創ったのか?」

 

私の考察

とても深く濃く恐怖を体感し、彼女にとって心地よくない周波数「陰」が大きくなる。

二人の子供からアドバイスを求められる電話が入る。自己の存在意義、有価値を感じられる。彼女にとって心地のよい「陽」となる。

バランスをとっているのかも?と。

 

問題を作り出しては解決する。

それは問題「陰」を感じて、解決する「陽」を感じる。

陰陽、アップダウンの感情を感じて、バランスをとっている。

 

この創造の仕方をやめられないのは、深いところでそれが楽しんじゃないか?と。

 

神の周波数は「穏やかで満ちている」らしい。それは陰でも陽でもなく、中庸。

元々神である私たちは陰陽を体験するためにこの三次元の地球にきた、と。

ってことは、感情のアップダウンは楽しくて仕方ないはず。

 

そして、風の時代となり陰陽の遊びをやめて、内在神を思い出し、そのもので生きる時代へ。

 

ってことは、陰陽の遊びを止める。中庸にある。

陰陽を思考を使って作り出している左脳から、内在神と繋がる右脳へ。

 

との学びと気づきがあった今回の剣山リトリート

同時に、主催の相方が体調不良になるなど、私個人としては相変わらず「私が何とかしなきゃ」の現実を創り続けている。

 

恐怖と有価値の現実を創っている彼女に投影された自分を内観すると、

私が何とかしなきゃの現実は、子供がお母さんである彼女に電話で助けをこうことと同じ「無価値観あるが故に有価値を感じたい。」ために創った現実。

 

だから、元々ある無価値観の体感、周波数を感じきり、

私が何とかしなきゃを繰り返す創造の根底にある「助けて」と幼少期から親に言えずに育ったその時の心細さを感じよう。

この心細い体感が無価値観の体感でもあるのだろう。

 

 

と、リトリートを振り返りながらの内観と気づきの記録。

 

 

実験はまだまだ続きます。

 

 

やはり、この景色は息を呑む素晴らしさ