シンガーソングライター深瀬人寛
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一拍

街路樹の葉が、いつの間にか落ち着いた赤茶色になっていた。
 

ラジオの収録を終えた帰り道。ポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。
渋谷、9th FLOOR。ワンマンライブの出演依頼。
続けてもう一通。楽曲制作の依頼が、同じ日に届いていた。
 

歩道の端に寄って、二通とも読み返す。
鞄の中には、先週より少し増えたリスナーからの便りもある。
返信の画面を開く指に、迷いはなかった。
 

数日後、渋谷「KIRI」。
白い内装の店のドアを押した。去年は、ガラス越しに店内を覗いては引き返した場所だ。今日は、取っ手の冷たさだけが指に残る。
奥からヒールの音が近づいてくる。
「連絡もなしに来るなんて、急ぎの話でしょう。上に行きましょうか」
 

二階の事務所。コーヒーが二つ、机に並んだ。
「ライブの裏方と、当日までの段取りを。お願いできませんか」
返事より先に、桐谷さんの手が手帳を開いていた。
「日程は」
蒼は鞄から、折り目のついた紙を取り出して広げた。
十一月三十日。去年、再びステージに立った日と、同じ日付。
桐谷さんのペン先が、そこで一瞬止まった。
「……この日にしたのね」
「はい」
頷くと、桐谷さんの視線は紙の先へ移っていった。
下半分には、制作の締切が二本、リハーサルが三回、びっしりと並んでいる。
黒縁メガネを指で押し上げて、端から端まで目で追う。
「段取りを組むには、あなたの全部が要るの。……ライブの前の週に、締切が二本」
「はい」
「睡眠時間がないわね」
「大丈夫で…」
「前もそう言ったわ」
責める声ではなかった。カップの縁で、湯気が揺れている。
紙の上の数字を見たまま、言葉が出てこない。
「忙しいときや嬉しいときが、一番危ないのよ。あなたの場合は」
それ以上は、何も言わなかった。コーヒーを一口。答えを急かさない沈黙が、机の上に置かれていた。
 

駅の階段の手前で、足が止まった。
ライブを成功させるには、締切を一本、動かしてもらうしかない。制作を依頼してくれた担当者に、自分で頼むしかなかった。
連絡は、昔から苦手だった。電話となれば、なおさら。
発信の文字の上で、親指が動かない。一度画面を閉じて、もう一度開いた。
押す。
呼び出し音が、二回、三回。
「お世話になっております、蒼です。実は十一月の末に、自分のライブがありまして。準備に集中したいので、納期を一週間だけ、延ばしていただけないでしょうか」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
「大丈夫ですよ。ライブ、頑張ってください」
通話が切れたあとも、スマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。手のひらが、汗で湿っている。
 

翌日、KIRIの二階。
「納期、延ばしてもらいました」
「そう」
それだけだった。桐谷さんの机には、もう会場の導線図が広がっている。赤いペンの線が、入口から受付、楽屋へと伸びていた。
コツ、コツ、コツ。窓際へ歩くヒールの音が、いつもより少し軽い。
 

十一月三十日。
会場へ向かう道、街路樹の赤茶色の葉が、風に一枚、また一枚と落ちていた。足もとの歩道にも、乾いた色が溜まっている。
 

午後の9th FLOORは、窓の外が秋の空気で澄んでいた。遠くのビルの輪郭まで、くっきりと見える。
リハーサルのあいだ、その景色を背にして、蒼は鍵盤だけを見ていた。
 

開場前の楽屋。
机の上に、緑の表紙のノート。開かないまま、手のひらを置く。
紙コップのコーヒーは、さっき桐谷さんが置いていったものだ。まだ温かい。両手で包んでも、指先の冷えは抜けなかった。
鏡の前で、手首を回す。指を一本ずつ、反らせる。
壁の向こうから、客席の椅子を並べ直す音がかすかに届く。
廊下を行き来するヒールの音が、近づいて、止まった。
「開演まで、十二分」
ドアの隙間から、声だけが入ってくる。
「受付は私が見るから。あなたは、音のことだけ考えなさい」
音が、遠ざかる。
窓の外で、空の色が少しずつ落ちていく。
カップを置いた。ノートの表紙を親指でひとなでして、立ち上がる。


袖に立つと、客席の暗がりから、人の気配が押し寄せてきた。
衣擦れ。咳払い。グラスの触れる小さな音。それらが、照明が絞られるにつれて、少しずつ引いていく。
そっと歩きだす。床板が、靴底の下で一度だけ鳴った。
ピアノの前に座り、椅子の高さを指先で確かめる。
一本のスポットライトが、頭上から落ちてきた。光が帯になって、蒼とピアノの黒い天板を、闇の中に切り取っていく。天板には、街の灯りが映りはじめた。
窓の外は、もう夜の東京だった。ビルの窓、道路の光、屋上の赤い点滅灯。背中で、その広さを感じる。視界の端では、壁の馬の頭の形をしたあかりが、赤い壁をあたためていた。

9th FLOORから見る夜景

目を閉じる。
一度目の深呼吸。胸の奥で、空気が止まる。
去年は、この沈黙が怖かった。無我夢中で、必死で、音を置いては次の音を追いかけた。気がつけば、最後の和音の上にいた。
二度目の深呼吸。
目を開けて、鍵盤に手を置く。
まだ、鳴らさない。
客席の息づかいが、一つに揃っていくのが分かった。誰も動かない。空調の低い唸りだけが、広い空間を満たしている。

ほんの一拍。

客席の奥で、扉が静かに閉まる音がした。
そして、最初の一音。
音はピアノの胴の中で膨らんで、やわらかく客席に広がった。声を重ねる。声は、残響のなかをゆっくりと進んでいく。
ピアノの反響と声の余韻が、光の帯のなかへほどけていく。それを、目で追えた。
サビで、客席の熱が正面から届いた。頬がほてる。額に滲んだ汗が、こめかみを伝って落ちた。
最後の音が消える。
一拍遅れて、拍手が押し寄せた。波のように、足もとまで。
 

二曲目では、指が前のめりになった。熱に押されるように、テンポが先へ走る。気づいて、息を深く落とす。曲の後ろ半分で、ようやく手綱が戻った。
 

そこから先、曲は一つ、また一つと、光の帯のなかを過ぎていった。
左手の低音が、床板を伝って足の裏まで届く。右手は、その上に歌の輪郭を置いていく。ペダルを踏み替えるたび、残響が一段ずつ深くなる。
歌とピアノが一つの大きなうねりとなって、会場に広がっていく。
暗がりに、目を閉じて聴く人の横顔が浮かんでいた。膝の上で組まれた手。握りしめられたハンカチ。
去年は、客席を見る余裕などなかった。止まらないように、ただ弾き続けた。
今は、言葉を一つずつ、いちばん奥の席まで運ぶように歌える。一音を置いて、その行方を見届けてから、次の音へ進める。
その音の、最後の一音が消えるまで。
消えたあとの静けさまで、客席と分け合うように、指を鍵盤の上にとどめた。
 

片付けを終えた会場に、窓の外の光だけが残っている。
入口に、桐谷さんが立っていた。書類を胸に抱えたまま。
「二曲目、少し走ってたわ」
「……はい」
「でも、一曲目の、歌い出す直前の間。あれはよかった」
メガネの奥の目が、まっすぐ蒼を見ている。
「間が作れる人になったのね。前は、どこか生き急ぐような勢いを感じる人だったから」
頭を下げかけた。
「頭は、下げなくていいわ」
コツ、コツ、コツ。
ヒールの音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
 

窓の前に立つ。
ガラスに、自分の顔が薄く映っていた。その向こうで、屋上の赤い灯りが瞬いている。
一つ、息を吐く。
ガラスがほんの少し曇って、すぐに晴れた。


芽吹くための雫 スピンオフ短編「一拍」

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