稚拙で邂逅なる第三世界.    『春夏秋冬lコスモロジー』-5166MBVMDCL.jpg


北野武監督の映画「Dolls」を見てきました。


内容は『冥途の飛脚』という近松門左右衛門の悲恋の名作が語り部になっていて、全体のテーマになっています。


一本の赤い紐に結ばれ、あてもなくさまよう男と女。

迫り来る死期を悟った、老境のヤクザと彼をひたすら待ち続ける女。

事故で人気の絶頂から転落したアイドルと、そんな彼女を慕い続ける孤独な青年。

その3つの物語を繰り広げながら交錯させていく゛究極の愛゛をテーマにした映画。
その中に、日本の美しい四季が幻想的に色鮮やかに織り込まれていて、とてもオリエンタルな映像作品にも仕上がっています。


個人的には自分の感性、そして認識の安全圏内を確実に越えてしまう作品なので是非とも一人でも多くの人に見てほしいんですが、またそれを受け入れる人によっては悪い方向の感性も広がってしまうので、人によっては絶対に見てほしくない映画でもあります。



またこの映画の記者会見で北野監督がこう述べてもいました。



北野監督:

「今回は「究極の愛」と言われてるけど、実は「死」というものが非常に暴力的で、登場人物が「どうにかもうちょっと近づいて、何かしようかな」と思った瞬間にいきなり暴力が現れるという、一番残酷な話です。


「死」というものは忌み嫌われるものだけど、それは日本特有の文化かもしれないよね。

“近松もの”なんかはそうだけど、“愛”とか“恋”っていう包装紙で「死」をくるむと、ステップアップしてしまう。

「死」に“愛”と“恋”をまぶすと、その「死」がランクアップしてしまうような、一番嫌な感性というか感情とかっていうのは、わりと日本人が持っているものじゃないかな。

そういう意味で、こんな残酷な映画はないから、一番、激しい暴力映画だろう、ということです。」



3組の恋の物語は、内容を見ればもっと分かるが本当にどれも救いようのないぐらい純粋な愛がある、しかしどこまでいっても現実とは非常に残酷なのだと強烈に押し付ける意志がそこにはあり、強烈な吐き気をもよおすぐらいの、内側に向かう愛という狂気がそこにはあった。




いや。。でも純粋な愛というのは現代日本からみれば単に異常者という事実が、良い意味で俺の新たなアイデンティティの枠を広げてくれた部分では良かったのかもしれない。




この映画を見終わってから、今でも、今まで感じたことのない感情が心を駆け回っています。


極端な物語や、構成のため人によっては駄作と決めつけるかもしれない。


しかし、映画とか音楽とか文楽という芸術を評価するにはまず確固とした判断基準となる哲学なり、思想を持っていなければならない。



自分は、この映画のテーゼは現代の「宿業」を極端なまでに凝縮し、そこからしか見いだす事ができない「究極の愛」という方向へ。

即ち今までの無慈悲の自分を乗り越え、「菩薩界」への昇華を目指した人間革命の映画であると思います。


また、この悲惨だらけの社会を救わなくてはという、自分にある仏法者という使命のあり方を強く感じる事もできました。


そして、この映画を通して伝えたい【先生の御指導】です。



──「なにと・なくとも一度の死は一定なり」と仰せです。

これは、私の半世紀以上にわたる信心のなかで深く感銘を覚えた御聖訓の一つです。

人として生まれてきたからには、いつかは必ず死ぬ。いかなる人間もこの道理から逃れることはできません。大切なのは、一度しかないこの命を何に使うか、ということです。