私たちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学的用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うのをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

あなたが死んでからというもの
私は探し続けている
あなたの選んだ閉ざされの闇と
その闇の意味と
闇を抱えたあなたの死をどう受け入れ
自分が生き続ける意味をどうやって見いだせば良いのかと。

ヴィクトールは生きることも、苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろうという。

生きることは日々、そして刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることにほかならない。

生きることは至極具体的で、意味は具体性のなかにある。
そうヴィクトールは言うのに、私は具体的にどう打ち返せばいいのだろう。
あなたの死に応えられるのだろう
死を持ってしてまでもちだした具体性に
どうやって生身の人間の私が応えれば良いというのだろう

私たちもひとり残らず、意味なく苦しみ、死ぬことは欲しない。

また12月がやってきた