学力の二極化

「ゆとり教育」。そう呼ばれる理念によって、かつて、学校は大きな変化を余儀なく

 

された。

 

平成10年に行われた学習指導要領の改訂。25年前のことだ。いまでは、その年代層に

 

見られる自主性の希薄さなどの特徴が、「ゆとり世代」などと揶揄されることもある

 

ものの、そこでは探究的な学びが称揚された。文部省(当時)がまとめた資料には、

 

現在の指導要領かと見まがう表現が残される。

 

<自ら学び、自ら考える力>

 

子供を学校から、家庭や地域へと返し、新たに生まれた「ゆとり」を保護者らと過ご

 

すことで社会や自然の中から体験的に生きる力を育んでもらう。理想実現のため、教

 

育内容や授業時間は大幅に削減。学校は週5日となった。小中高校で探求的な学びを行

 

う「総合的な学習の時間」が創設されたのも、この時だ。しかし、この試みは2つの要

 

因から失敗に終わる。

 

1つは探求型学習を指導できる教員の不足。もう1つは、家庭や地域の環境に伴う学力

 

の二極化だ。

 

当時の改革は明らかに準備不足だった。探究的な学びの指導法の研究も追いついてお

 

らず、ノウハウの十分な蓄積もなかった。

多忙極まる教員

ゆとりを与えられて家庭に戻った一部の子どもを待ち受けていた現実は、理想とかけ

 

離れたものだった。

 

家庭の経済力や文化水準、地域の温度差などによる二極化である。親に勉強を見ても

 

らえる子供と放置される子供。塾に通わせる家庭と費用を捻出できない家庭。

 

居住地ごとの自治会や子供会が教育にかける熱量の差・・。そんな「格差」は、子ど

 

もの学力に少なからず影響を与えた。

 

ゆとり教育の功罪をめぐり、巻き起こった「学力低下論争」を背景として、国は平成

 

20年の指導要領改訂で授業時間を増やし、「脱ゆとり」へと舵を切った。だからとい

 

って問題が解消されたわけではない。事業時間増と授業外の校務負担など多忙さに追

 

われる教員。

 

事業研究の余裕もなく、多くの教員が探求型学習を扱いかねている。ゆとり教育の時

 

代と同様の構造も残る。それはデータからも明らかだ。困窮家庭を支援するチャン

 

ス・フォー・チルドレンが昨年12月にまとめた保護者調査による。と、小学生の子供

 

が校外で運動や音楽などの体験活動を「何もしてない」とした世帯は年収300万円未

 

満で29.9%、600万円以上(11.3%)の3倍近くにものぼった。学校も家庭も当時と同

 

じように格差にあえいでいる。このままでは,ゆとり教育と同じ轍を踏みかねない。

全社会の課題

新約聖書のマタイ福音書13章12節には、こうある。<持っている人はさらに与えられ

 

て豊かになるが、持っていない人は持っているものまでとり上げられる。条件に恵ま

 

れた人は更に好条件を得る。恵まれなければ悪条件の甘受を余儀なくされ、正と負の

 

スパイラルで格差が拡大して行く。社会学で「マタイ効果」と呼ばれる力学である。

 

自ら問を見い出し、力を付けていく子ども。その逆に、体験活動の乏しさから問う

 

ことにつまずき、学びを諦めてしまう子供もいる。

 

探究型学習のプロセスにマタイ効果が作動する可能性がある。>

 

その読解力は、その学力は、そして、それらを駆使して得た学歴は、」本人の努力だ

 

けで手に入れたものなのか、偶然の作用はないのか。子供は親を選べず、家庭環境に

 

人生が左右される。

 

その現実を冷笑的に捉えた「親ガチャ」という造語すらできた。傘格差はゼロにでき

 

ない。

 

だが黙認されるべきではない。

 

「教育格差は学校だけに、家庭だけに、解決を押し付けて済むような矮小なテーマで

 

はない。

 

社会全体が変わらなければならない。誰もが自らの問題として議論しなければ、決し

 

て解決には向かわない。