和多志大神がお慶びなので。(完) | みらくる☆彡

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つづき


その8 八面大王伝説


安曇族は移住して100年ほどで地名に記されるほどの繁栄をし、その後 奈良の正倉院に麻布を献上するまでに安定した暮らしをしていました。しかし・・・移住から250年ほどして 究極の難題がやって来ました。

【八面大王伝説】
■その昔、全国統一を目指した大和朝廷が、信濃の国を足がかりに東北侵略を進めていました。この地の住民たちは朝廷軍にたくさんの貢ぎ物や無理難題を押し付けられて大変苦しんでいました。安曇野の里に住んでいた魏石鬼(ぎしき)という八面大王はそんな住民を見るに見かねて立ち上がり、坂上田村麻呂の軍と戦い続けました。多勢を相手に引けをとることなく戦った大王でした。

が、山鳥の尾羽で作った矢にあたり、とうとう倒れてしまいました。大王があまりに強かったため・・・・・(このあとのお話は次回につづく)
(写真は大王わさび農場の八面大王)


■「あづみ」という文字が見られるのは、大化二年(646)年の改新の詔により、全国が畿内七道に分けられ、東山道に科野(信濃・しなの)国を置きその下に伊那・諏訪・筑摩・安曇・更級(いな・すわ・つかま・あづみ・さらしな) 水内・高井・植科・小県・佐久(みのち・たかい・はにしな・ちいさがた・さく)の10郡に分け、その下に63の郷が置かれた。安曇郡には高家郷、八原郷、前科郷、村上郷(たきべ・やはら・さきしな・むらかみ)の4郷が置かれたとあります。


■安曇氏が文献上初めて登場するのは、奈良時代(746)年頃で、その年の10月に正倉院に献納された麻布に記載されている文字に『信濃国安曇郡前科(さきしな) 郷戸主安曇部真羊調布壹端(へぬしあづみべのしんよう)』とあります。献上した真羊さんが安曇姓を名乗っていたことが分かります。また、ここに登場する前科郷というのは明科小泉から押野、池田町にかけての山麓に展開していた50戸あまりの郷村で、当時は麻の産地でこれを布に織って税の一種として朝廷に納めていたようです。

■この八面大王の戦いは、ある説では793年~795年の間、もう一つの説では806年と言われています。794年が平安京遷都の年です。
ここで注目すべき名前が「八面大王」です。いまでこそ(はちめんだいおう)と呼んでいますが、大和言葉(本来の日本語)では(やめのおおきみ)となります。漢字は輸入された文字ですので本来の日本語を漢字になおすときは素直に当てはめていったものの、長い年月で文字だけが記録に残り、読みも漢字の読み方に変わっていったものと思われます。(坂本博著より)
魏石鬼(ぎしき)さんは、九州の八女(やめ)のおおきみ(磐井氏)の子孫なのです。

■西暦550年前後に安曇野にやって来た八女の磐井氏の息子と安曇族は100年ほどかけて未開の地安曇野に安定した基盤を作り、地名にもなるような繁栄をし、たくさんの古墳を残しました。250年ほど経過した西暦800年前後の大和朝廷との戦で安曇族は完全に滅びてしまったのでしょうか?・・・・・・・(これも次回につづく)



その9 八面大王や安曇族のその後


ヤマト正規軍は安曇野の南側に布陣、現在「倭(やまと)」という地名が残っています。一方、豪族仁科族は北側に布陣、現在の大町市の仁科神明宮(にしなしんめいぐう)であったろうと云われています。
北と南から挟み撃ちにあってしまった八面大王は有明山の魏石鬼窟(ぎしきのいわや)までにげのびますが、とうとう矢を射られてしまいました。
大王があまりに強かったため、蘇ってこないようにと身体をバラバラに刻み、胴体は現在の大王わさび農場、頭は松本の筑摩神社、耳は耳塚、足は立足というふうに全く違う場所に埋めてしまいました。...
(写真は耳塚(右側の立木がある場所)、遠くに「有明山」が見えます)

不思議なことに、このバラバラ埋葬の地名を結ぶと「有明山」にほぼ一直線で至るのです。


■大町の仁科の里にのこる八面大王伝説は次の様です。
西暦770年-780年にかけて、民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件がおきた。宝亀8年(777年)秋に調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所を発見した。
その後、村への入り口に見張りを立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗みの被害はいっこうにやまなかった。そのうち盗賊たちは、「中分沢」(中房川)の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった。
山から出るときは、顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗り、手下とともに強盗を働いた。これを憂いた皇極太子系仁科氏3代目の仁科和泉守は、家臣の等々力玄蕃亮を都(長岡京)に遣わして、討伐の宣旨を求めさせた・・・。

八面大王は盗賊となっています。


■北安曇郡松川村には鼠穴(ねずみあな)という地名があります。
勝利した側が安曇族のことを馬鹿にして「鼠(ねずみ)族」と言ったのでしょう。
戦の発端も年代もまるで違う話になっています。

■有明山から流れ出る中房(なかぶさ)川には、大王橋、鼠橋があり、また、八面大王が最後に身を隠したと云われる「魏石鬼窟(ぎしきのいわや)」があります。
山麓線と中房線の交差するところは「宮城(みやしろ)」と云います。宮城とは天皇(おおきみ)が住む皇居の事です。

■安曇野では「ここが安曇村だ!」「ここが安曇町だ!」という場所を特定できません。
安曇族は穂高町、池田町、松川村あたりを中心に広範囲に居住していたものと思われます。

■磐井(いわい)は、九州では有明海を囲む連合国家の首長でした。
磐井の根拠地 八女(やめ)の真西には有明海、そして、安曇族と共に遠く逃げ延びてきた安曇野の真西には今でも有明山がそびえています。「有明」という地名が同じ位置関係であることには驚かされます。

■安曇野での戦に負けた安曇族が皆殺しにあったという言い伝えはありませんでした。戦の後は、口をつぐんで静かに暮らしたのでしょう。ただ、博多からの風習はかたくなに守ってきたものと思われます。

■「歴史は勝者の物語である」と言われます。しかし、負けた者たちの伝説がこれほど残っていることは、とても不思議で嬉しい事です。





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