真釣りに響く考えるは「カミカエル」。 | みらくる☆彡

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つづき


なれば今今の神経綸(しくみ)の御ハタラキ、
そっくりそのまま、汝等の真中にても
既にハタラキあるを知りて下されよ。

汝等の真中に残りありた一厘のマコト、
元つ大神のお出ましに呼応して、
汝の真中を占拠する身欲を基の台と成す、
九分九厘の「あやま知」を
自ら払わんと鳴り響きて居るのじゃ。

一厘九分九厘の戦(いくさ)でござるぞ。

汝が早う気が付きて、孤立無援で戦する、
汝の真中の一厘に、三真釣る行にてマコト出し、
透け切る心に火を立てて、真中と一如に共鳴れば、
勝てる戦にあるなれど、汝のメグリ必ず暴れるから、
一厘のマコト余程しかりご守護なさば危ういぞ。

この方は全く心配ござらぬが、
汝等はこ度は自らが清まりて、
マコトの少しなりと
鳴り出される様に成りて下さらねば、
この方も手を貸す事は出来ぬのぞ。

こ度は汝等お一人お一人が、
自ら三真釣り持ち行き少しでも、
清まりマコトを出す事が、こ度の仕組みの要にて、
外すは適わぬ事にてあるのじゃ。

こをどうありても解かりて下されよ。

三歳苦難のタテカエ申すは、神々含む汝等を、
一挙に一度に清める事にてござるのぞ。

悪を使うて悪を払うお仕組みなれば、
そがために九分九厘までは悪神(あくしん)に、
勝ちを持たして上ぐるのじゃ。

この方にとりてはこ程楽な事も無いなれど、
それでは残る人民殆どないから、
くどうくどう申して居るのじゃぞ。

この方は人民様の酷きザマ見とう無いのじゃ。

この方も辛いのぞ。

神、頼むぞ。

三歳苦難のタテカエ迄に少しなりとも
マコト磨きて下されよ。

マコト三真釣り持ち来たりて、
マコトの響き鳴りてる者は、
正神真神のご一統がご守護の回りて汝を支えるから、
どんな事がありても起こりても何のご心配も無いぞ。

安心致して見て居るが善いぞ。

何かに付け三真釣り持ち行く申すは口と心と行いを
少しも違えず行に結ぶことでござるから、
「違えずに行を結ぶこと」だけを念頭に、
身欲損得を捨てて行じて下されよ。

考え深くあるよりは、真釣り深くありて下されよ。

真釣りに響く考えるは「カミカエル」でござるから
善いのであるが、魔釣りに響く考えるは
「我(が)が得る」だけであるからぞ。

「我(が)が得る」だけでは、
益々真釣りを外すだけではござらぬか。
神のご用に使う程の者は、
我(が)があり過ぎても無さ過ぎても
困るのであるから、
真中と我、どちらが汝の主であるか、
今今にハキリ、タテワケ致しおいて下されよ。

汝等の真中と我、同じじゃ思い見なし居りては
間違うぞ。

「我」申すは、汝等生来の色にござるのじゃ。

色の響きざ申しても善いぞ。

元々のものなれば我善し思うも我悪し思うも
偏りたるハタラキの顕れにござるを知りて下されよ。

「我」の元々善悪は無いのであるぞ。

双方「我」を律し切れぬが因でござるよ。

双方ご自身の真中を知らぬが由の不手際にござるよ。

汝等皆々「我」を空しゅう致されて
「我」を律するお力、持ちて居るではござらぬか。

なれど汝等今今は
「我」に首輪をかけられ居るを知りて居るか。

主従が逆様になりてござるぞ。

もともと「我」は汝が真釣れば、
一如に和し真釣る響きにてはあるが、
「犬」の如く自らの真中の響きの固持に忠実な
響きでござるから、
汝が「身欲」を基の「あやま知」に囚われ、
汝の真中に「身欲」を据えて居らるれば
「我」の響きと共鳴り致すも道理でござろう。

汝ご自身が真中のマコトに気付きて無くれば、
真中に居座る「身欲」を主と思うぞ。

汝のマコトが命令せなで、
いかで汝の真中の本懐が立つ思いてか。

汝等がそのようなザマであるから
「犬」は知らず「欲」に使われ居るのぞ。
「欲」を操る者どもが「犬」に命令を下し居るのぞ。

主に忠実な「犬」は
「我」に命令与えあるを主ざ思う由、
「欲」の言いなりになりて居るのじゃ。

これ解かるか、汝のマコトの真中で無き者が、
犬なる「我」を使うて汝を動かして居るのぞ。

ざから首輪が逆になりて居る申して居るのじゃ。

汝は気付けず引きずり回され居るも解からぬのじゃ。

情け無き申しても余りであろうが。

今今の今に首輪かけ換えて下されよ。

誰がマコトの主か
ハキリ、タテカエ、タテナオシなされて下され。