。。。つづき
縁談
おめでとうございます。身も心も充実し、好機に恵まれるでしょう。
まさに実りの時です。目の前のチャンスを掴んでください。
数々の試練を乗り越え、勝利を目前にしています。
多くの人達があなたを支え、力を貸してくれるでしょう。
ご挨拶をさせていただきました
神社で引きました御神籤と
同じ内容の言の葉を、大國主さまも
教えてくれていたのでした。
星神
出雲族最後の族長、「天津甕星」。
「葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで
建御名方神と同一神とされることもあり、
また、神仏習合の発想では北極星を神格化した
妙見菩薩の化身とされることもある」
裏も観ております。
お掃除道具に、囲まれていたよ。
安政の大地震より
世にいう「安政の大地震」は、特に1855年(安政2年)に発生した安政江戸地震を指すことが多いが、この前年にあたる1854年(安政元年)に発生した南海トラフ巨大地震である安政東海地震および、安政南海地震も含める場合もあり、さらに飛越地震、安政八戸沖地震、その他伊賀上野地震に始まる安政年間に発生した顕著な被害地震も含めて「安政の大地震」と総称される。
1854年の伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震は、安政の前の嘉永7年に発生した地震であり、当時の文書、日記、瓦版などは「嘉永七年甲寅・・」と記され、地震後の嘉永7年11月27日(1855年1月15日)に安政に改元されたため、本来「嘉永の大地震」と呼ぶべきであるが、明治改元の際、詔勅で「慶応4年(1868年)を明治元年と改元する」とされ、慶応4年1月1日に遡り明治元年と改元された例に倣い、「嘉永7年1月1日に遡って安政元年に改元された」と解釈され、「安政の大地震」でよいとされる。
東海地震津波で荒廃した下田はその後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となり、1856年にはハリスが着任して幕府との交渉にあたった。ハリスの妾となった唐人お吉も支度金25両、年俸125両で身売りせざるを得なくなったのは、生家が東海地震津波で流され貧苦のどん底に落とされた背景があったとされる。
安政以前
その縁起の良いヒイラギとナンテンの両方の名前を持つのが、ヒイラギナンテン。
魔除けと、来福、のダブル効果の庭木です。
ヒイラギは庭の東北(表鬼門)、ナンテンは庭の南西(裏鬼門)に
植えるといいと言われますが、
ヒイラギナンテンは、そのどちらでも良いそうです。
花言葉は、「愛情は増すばかり」。