アメリカの探検家ハイラム・ビンガムがマチュピチュを発見したのは1911年のこと。実はこの時、彼が探していたのは、ビルカバンカ(インカ帝国最後の都市)であった。ビルカバンカは、インカ帝国が1511年のスペインによる侵略から逃れてつくりあげた都市で、長い間、失われた伝説の都市として語り継がれてきた。
ハイラム・ビンガムは、マチュピチュこそが“インカの失われた都市ビルカバンカ”であると主張したが、彼の1956年の死後、真のビルカバンカは、マチュピチュから50キロメートル西に建てられていたという説が有力となった。
今でこそ、マチュピチュに暮らす人はいないが、ハイラム・ビンガムが発見した当時、3人の家族がそこで農家として暮らしていたという。
2. マチュピチュの地震と共存する建築様式
マチュピチュの遺跡は実に精巧につくられている。それぞれの石がきれいに合致するように切り出されており、その間にはクレジットカードが入る隙間も無い。これは、当然、見た目の美しさをつくっているのだが、それだけではなく、建築上の利益も生み出している。
ペルーは、地盤が安定しておらず、地震が起きやすい国だ。実際、首都リマやクスコ(マチュピチュへのアクセスとしても利用されるペルーの大都市)は、地震による隆起によって形成され、マチュピチュは、2つの断層線上に位置している。
地震が起きると、インカ様式の建物は“踊る”と言われている。つまり、僅かに振動しながら動き、その後、元の位置にしっかりと戻る。この建築様式が無ければ、マチュピチュに残る遺跡の多くは、何十年も何百年も前に崩壊していたかもしれない。
3. 地下に隠されたマチュピチュの建築技術

マチュピチュの建築様式として、壁面の美しさは言うまでもないが、忘れてはならないのが、建築技術である。
遺跡の石は、マチュピチュにある二つの頂上を結ぶようにして存在する谷から、削り取られたものが使用されている。石切り場から運ばれた石材によって、平な土台がつくられている。
土木技師のケネス・ライト氏によると、マチュピチュの遺跡につくられた土台部分の60%は、地面に埋まっているという。地下には、遺跡を建造するための土台部分と、水はけをよくするための砕かれた石が設置されている。現に、マチュピチュでの降水量はかなり多く、このような技法が生み出されたのは生活の知恵だと言える。
【マチュピチュの謎に迫る】空中都市マチュピチュに隠された秘密ベスト7より