てぺてぺてぺ











美味しかったにゃ








三島明神のもう一つの物語の本当の意味
2012-01-07 12:02
「神道集 三島大明神」
昔、伊予の国に一人の長者がいました。
*①平城天皇の末裔で、姓は橘朝臣清政という。
四方に四万の倉を立てて何不自由なく暮らしていました。
朝は五百人の待女、夕方は三千人の女官がそば近く世話をしました。
ある時、清政長者が南に面した庭園の方を見ると、雀が巣をつくって子供を育ていました。
その様子を見て、子供がいなかった清政は、男でも女でもいいから、子供が欲しいと思いました。
すぐ、奥方さまを呼んで、どうか子供を生んで欲しいと、頼みました。
しかし、奥方さまは、
「それは、むりなことでございます。」 といいます。
*②「子は、前世からあきらめたこと。」
でも、前世で行ったことが、本当に原因で子供ができないのかどうか、確かめてみたいと思いました。
*③大和の長谷寺の十一面観音は、子の無い人がお願いすれば、子を恵んでくださり、福徳をお願いすれば、福徳をおあたえくださる。
そう聞いていた、奥方さまは、長谷寺へ、お参りにすることにしました。
長者は、財宝を集めて出発しました。
そして、長谷寺へその財宝を全部寄進し、七日七夜参籠して、熱心にお祈りを続けました。
しかし、何のお示しもありません。
14日たっても、お示しがありません。
信心の限りをつくしてお願いすると、満願の21日の真夜中、ついに観音様が現れました。
しかし、観音様は、こ無しとしてこの世に生まれてきたからには、どうにもならぬ。
どこを探しても、そなたの子になるべき子種は見つからないと。
「そういわれるが、いったいこの清政が、前世でどんな罪を犯したというのでしょう。」
「*④お前たち夫婦は、昔、牛だった。
このお堂が造られた時、淀から材木をひいてきた牛を、庭につないでおいたときの出来事である。
*⑤私の前に有名な一本の菊があった。
この菊は、唐の太宗皇帝の子で玄弉三蔵という僧が中インドの摩訶陀国の王舎から、花の種をもらって長安城の宮中に植えた。
それを仁徳天皇の時、鶏草葺不合尊がもらい受けて日本の宮中に植えた。
この菊の花は、根元は一本だが、枝は繁昌して五本に分かれている。
東の枝は青くて青色の花が咲き、
南の枝は赤くて赤色の花が咲き、
西の枝は白くて白い花が咲き、
北の枝は黒くて黒い花が咲き、
中の枝は黄色くて黄色い花が咲く。
こんなに素晴らしい菊の花を宮中におくのはもったいなさすぎるといって、この長安寺の宝前に移植した。
世の中にこれ以上の宝はあるまい、天下第一の宝であると思っていた矢先、その雌牛があっけなくこれを食ってしまい、またお前は茎を食ったばかりか、角で根まで掘りおこし、すっかり枯らしてしまった。
その後、あの花の種を捜したが、どこにもない。
この過失を反省し、その罪により、このない身に生まれたのである。
*⑥ただ、お前たちは、このお堂の材木の運搬をしたし、またお堂建立の供養に千部経供養をした時、僧の饌米と布施物を運んだ。
その功徳によって、お前たちは大金持ちに生まれてきた。
そんなわけで、お前たちに与えるべき子種は無いのだ。
さあ早く国もとへ帰りなさい。」
夢がさめた清政は、なくなく言った。
「そこまで徹底的に子無しの身にうまれついた清政なら、もはや故郷へ帰る必要もない。
子を授けていただけないのなら、この清政、自分で腹をかき切って仏の首すじにかみついて、狂い死してしまいたい。
*⑥今後は、このお堂を大魔王の住みかとして、堂内に参籠する人は一人残らずつかまえて殺し、この辺をを鹿の寝床のように荒れ果てさせてしまおうと思うが、いかがですか。
どうかまげてお授けください。」
そう言ったあと、しばらく横になると夢枕に、観音様は前と同じ姿で現れて告げた。
「ただ一つ、
*⑦この大和の国采茶郡に一人の女がいる。
この女に、一人子種を与えようと思ったが、今、お前が無理にわたしを責めるので、その女にやる子種を取り返してお前に授けよう。
その代わり、倉の宝をこの女に与えようと思うが、どうじゃ。
お前は宝が惜しいか、子がほしいか」
清政は、「倉も、五万の一族もみな観音様に差し上げますから、どうぞその子をお授け下さい。」といった。
「そういうことなら、後々けっしてわたしを恨むことがあってはならぬぞ」
そういって観音様は
*⑧水精の玉を取り出し、清政に下さる。
奥方さまはそれを口にいれたかと思ったら目が覚めた。
奥方さまは間もなく妊娠し、子供が生まれた。
隣近所まで輝くような美しい若君であったから、この子に 玉王と名をつけた。
しかし、観音様との約束どおり、倉も五万人の家来もすべてなくなってしまった。
ある時、長者が山へ木の実を拾いにいき、奥方さまが、誦坂の浦へわかめをとりに出かけた。
子供を浜の砂をすこし掘りくぼめ、錦の産衣をかぶせて寝かせ、自分は磯へ下りてわかめを拾っていた時、
*⑨空から鷲が飛んできて、子供をつかんで空へ上がってしまった。
奥方さまは、その後を追いかけたが、
*⑩鷲は伊予・讃岐・阿波・土佐四つの国の堺にある白人城を飛び越えて、与那の大獄に入ってしまった。
清政と奥方さまは、二人連れ立って探しに出かけたが、見つけることはできませんでした。
それもそのはず、
*⑪鷲は、白人城・与那の大獄を飛び越えて、阿波の国坂西郡に住む頼藤右衛門尉という人の庭先の枇杷の木の三つ股になったところへ子供をはさんで、わが巣へ帰ってしまった。
そして、玉王は、頼藤右衛門尉に育てられた。
五歳になった時、あまりに美しい若君がいることを聞きつけた 目代(国司代理)は、頼藤のもとへと、奪いにきた。
頼藤は、さしあげたくはなかったものの、相手は国司の代理、その気持ちにそむいたら、後々どういうことになるかわからぬと思い、差し上げた。
頼藤の奥方さまは、玉王が最初に着ていた産着に名前が書いてあることに気づき、大切に、しまいこんだ。
目代も、異常なまでのかわいがり方で、乳母、子守をつけて大切に養育していた。
若君が7歳になった年のこと、今度は国司がこの噂をきいて、目代をよびよせ、
「珍しい少年をもっている聞いたが、わしにくれぬか。もしくれるなら、代わりに国司職を譲ってもいい」
といわれ、目代もことわりきれず、国司に差し上げた。
国司は大喜びで、かわいがった。
若君が10歳になった時、帝のお目にかけた。
今度は帝がほしいという。
「南海道六カ国の総追捕使(荘園内の軍事警備総監)の職を与えようから、この少年を差し出すように」
国司は、帝に差し出した。
玉王丸が十五歳になった年の春、内の蔵人に任ぜられた。
その後十七歳の春、西海道の九カ国 (筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・大隅・薩摩・日向) と二つの島(壱岐・対馬)を頂き、筑紫の国へ下向することになりました。
蔵人が、庭先に下りて、花を観賞していると、四国から都へ上ってきた十数人の百姓たちがその姿を見て話を始めた。
蔵人はその話声が聞こえてきて、気になりそっと聞いた。
そして、自分がどこからきたのかわからないが、鷲が連れてきた子供だったことを知りました。
蔵人は、泣き崩れ、帝と遠く離れることはいやなので、四国へ行きたいとお願いをし、筑紫は代理官にまかせ、四国へ行くこととなりました。
四国へ下った蔵人は、自分を生んでくれた本当の母と父を探します。
すべての役人に、国中のものを一人残らずこさせるように命令します。
そして、すべてのものに、鷲に子を取られた人はいないかと聞きます。
しかし、一人も名乗りでるものはいませんでした。
蔵人は、ここにはいないのかもしれぬと、こんどは、伊予の国三島郡尾田の里の昔清政長者が住んだ館を修理させて、ここに到着した。
しかし、ここでも、名乗りでるものはいません。
役人たちを一人一人呼び寄せ、不審なことがないか聞いてみると、一夫婦だけが、蔵人のところへきていないことがわかります。
その老夫婦は、
「*⑫伊予・讃岐・阿波・土佐の国堺にある白人城、与那の嶺の南に、真藤の岩屋というところに住んでいました」
蔵人は、もしや、この夫婦が鷲に子をとられた夫婦かもしれぬと思い、家来たちに、なんとしてもつれてくるようにと命令します。
役人たちが夫婦をさがしまわっていると、老夫婦は、大きな杉の洞穴で発見された。
老夫婦は、縄で繋がれ、山を下り、昔自分たちが住んでいた伊予の国尾田へと連れてこられました。
疲れはてた奥方さまは、柱に縛りつけられたまま寝てしまいました。
するとその夢の中に、玉王が現れました。
「夢の中で、わたしたちが山の麓にいると、玉王は山の中にいました。
透額の冠に東帯という装束で、右手には太陽をにぎり、左手には月を持ち、後方には朱の糸で髪を結った天童が一人付き添って立ち、三本の小松を頭にかざしながら、峰から谷の方へ下りてきて、私が昔の玉王です。お父さん、お母さん。」
やがて夜が明け、昔自分たちが住んでいた屋敷へと連れてこられました。
そして、十七年間ずっと捜しもとめていた 玉王と再会することができました。
それから、伊予の国の三島郡を領地とし、玉王と老夫婦はともに暮らしました。
その後、玉王は伊予の中将となりました。
玉王が37歳のとき、老夫婦は亡くなりました。
玉王は、三回忌の供養がすみ、ようやく宮中へ参内した。
帝は感激され、座を立って、玉王の手をとり、御簾の中へ引き入れてその場で帝の婿に決められた。
そして、父母の墓の上に、社を造り、
「つらかった昔をお忘れなく、日本国中の衆生を守護する神となって下さい」 といって、昔住んだ土地の名を捨ててはならぬというので、神号を 「三島大明神」 と号した。
その後、中将(玉王)夫婦は連れ立って伊勢神宮に参詣、神道の法を受けて四国へ下向された。
御年81の時に神明として現れた。
*⑬「自分の生まれた国に住もうと思う」 といって、伊予の国一宮と現れた。
これと並ぶ
*⑭讃岐の国一宮は、中将の乳母 「高倉の蔵人の妻女が戒律を守り修行をつんで現れた神である。
また
*⑮阿波の国の一宮は、玉王の養父頼藤右衛門尉である。
三島明神が託宣された。
「わが氏子は枇杷の木を疎略にあつかってはならぬ。
わが子玉王は鷲にさらわれたが、枇杷の枝に捨てられ助かったからである。
また鷲は鳥の王である。
わが子は鷲にさらられたために、のちに万民の王となった。
その鷲を疎略に思ってもよいものだろうか」
そういって鷲にも神明の法を授けて
*⑯鷲大明神と神号をつけ、伊予の国一宮の御殿の前に社をたてて、大切に敬った。
*⑰その後三島大明神は、東征のため東国に移り住むことになった。
その時鷲大明神も同じように東国に飛び移って、武蔵の国大田庄に住むことになり、この国の鎮守と号して非常な尊敬を受けることになった。
諦めない勇氣を、ありがとう。