誰もが男と女の両性だ。
なぜなら、
誰もが両方の性から
生まれているからだ。
あなたの中のある部分は父親から、
ある部分は母親から受け継いでいる。
だから、
完全に男だけだとか、
女だけだとかいうことはあり得ない。
実のところ、誰もが両性だ。
違いはただ程度の差でしかない。
男は女に比べるとより男性的で、
女は男に比べるとより女性的なだけだ。
ただそれだけだ。
もしあなたが男なら、
脳の意識的な部分は男で、
無意識な部分は女ということだ。
もしあなたが女なら、
意識的な部分は女で、
無意識の部分は男ということだ。
しかし、
それが反対である場合もよくある。
たとえば、
男が年を取るとより女性的になるし、
女が年を取るとより男性的になる。
女が年を取ると、
ヒゲが生え始めたり、
声が男っぽくなったりするし、
争い好きで怒りっぽくなり、
イライラしがちになる。
男が年を取ると、
より素直で従順で、
女に従うようになる。
男はだんだん素直になり、
女はだんだん威圧的になる。
日々起こる変化もある。
女が激怒するとき、
意識的な部分は失われ、
無意識が非常に優勢になる。
腹を立てた女は、
腹を立てた男よりもずっと危険だ。
激怒した女は、
激怒した男よりもずっと危険だ。
が、それは、
女の無意識な部分が
稀にしか使われないため、
とても新鮮だからだ。
それゆえ、
それが使われると
女は非常に危険になりうる。
女が愛するとき、
その愛は猛烈だ。
女が憎むとき、
その憎しみも猛烈だ。
男が愛するとき、
その愛はとても深い。
女のそれよりも深い。
なぜなら、
彼の無意識な部分は
使われていないからだ。
女にしてみれば、
愛することは
ごく当り前のことだ。
それは、日常的なことだ。
女は愛する。
だが、
男が恋に落ちるのは容易ではない。
それは日常的なことではない。
実際、稀にしか起こらない。
しかし、ひとたびそれが起こると、
その愛の深さは女の比ではない。
これは私の観察だが、
すべての女は愛するものだし、
女が愛しても、
その愛はごく当り前のものだ。
それは女のマインドの一部だ。
普通、男はそんなに愛さない。
愛は普通、
彼らがする行為のうちのひとつにすぎず、
最も重要なものではないだろう。
ビジネスの方が
もっと重要な時もある。
そういう時、
彼らにとって愛は
ビジネスの間のレクレーションや、
リラクゼーションだ。
もしどちらかを
選ばなければならないとしたら、
きっとビジネスの方を選ぶだろう。
愛よりも政治の方が大切な人々もいる。
金、社会的地位、道徳・・・
男には愛よりも大切なものがたくさんある。
だが、女はひたすら愛する。
たくさんある中のひとつではない。
男が愛するのは、
一日のうちでもせいぜい数分だ。
女が愛するとき、
その愛は二十四時間だ。
それは自然だ。
しかし、
ときに男が愛する時、
どんな女も彼にはかなわない。
なぜならその時には、
彼の内なる女性が爆発するからだ。
男が本当の意味で愛に走る時、
彼はもはや男ではない。
そうなると、
彼の内なる無意識が爆発し、
彼自身を完全に乗っ取ってしまう。
瞑想者がすべきこととは何だろう?
瞑想者はその両方に気づくことだ。
そして、そのどちらについても、
自己同化をやめなくてはならない。
真の探求者は
自己同化を捨てなくてはならない。
自分が男でも女でもなく、
観察者であることを学ぶことだ。
そうして、あなたは
生体を超えていくことができる。
そうしてはじめて、
肉体を超えていくことができる。
なぜなら、
男と女は肉体に存在しているからだ。
せいぜい、
その影がマインドに存在しているにすぎない。
しかし、
魂は男でも女でもない。
その両方を超えていきなさい。
それゆえ、
見守り、
距離を置き、
離れていること。
目を覚ますことだ。
女がそこにいて、
機能しているのを見守る。
男がそこにいて、
機能しているのを見守る。
だが、
自分はそのどちらでもないことを
忘れないように。
真の覚醒が
常にセックスの超越に
つながるのは、
そういう理由からだ。
そうすれば、
禁欲は自然と起こる。
セックスをするには、
男か女のどちらかに
自己同化する必要がある。
真の禁欲者とは、
そのどちらでもなく、
超越をした者のことだ。
抑圧の話をしているのではない。
私はあなたがたに抑圧しろ、
と言っているのではない。
自分の中にある女や男を抑圧しろ、
と言っているのでもない。
私はあらゆる抑圧に反対だ。
私が言っているのは、
自分の中にある女性を表現しなさい、
自分の中にある男性を表現しなさい、
だが、
ずっと目を見張っていなさい、
ということだ。
抑圧したものは、
遅から早かれ姿を現すだろう。
意識だけが、
二元性を超えたところへ
あなたを連れて行くことができる。
あなたの中にある女性が、
あなたの中にある男性と
出会っていないとしたら、
あなたは外側に女性を、
または外側に男性を
必要とするだろう。
それは代用品にすぎない。
ゆえに、
決して完全に
満足することはなく、
常に何かが欠けている状態に
置かれることになる。
・・・
あなたが女性に恋をするとき、
それは実際には
あなたの中に内なる女性がいて、
外側にいる女性は、
その内なる女性を反映している、
ということだ。
恋に落ちるとは、そういうことだ。
・・・
彼女はあなたの内なる女性に、
内なる月に適合したのだ。
彼女はあなたの内なる月を
反射させたのだ。
彼女が
百パーセントであることは、
あり得ない。
なぜなら、
あなたの内なる女性は、
あくまでも内なる女性であって、
外側で見つけることは
不可能だからだ。
外側で見つけられるものは影でしかない。
女や男に恋をするとき、
あなたは鏡に恋をしているのだ。
遅かれ早かれ、
あなたは欲求不満に陥る。
しかし、
外側の女性が
完全にあなたを
満たせないのは良いことだ。
でなければ、
内なる探求に向かうことは
決してないだろうから。
外側の男があなたを
完全に満たせないのは祝福だ。
それは、
ただ単に一瞬の満足、
味わいを与えてくれるだけで、
あなたはますます
渇望を覚えるようになる。
・・・
そうしてある日、
あなたは自己に立ち返り、
内側を見るようになる。
・・・
あなたの内側の
女性的な部分を知りなさい・・・
必要なのはそれだけだ。
そうすれば、
関係することは
鏡の役割を果たす。
女はあなたを見て、
自己の中にある
男性的な部分を
発見するようになり、
男は女を見て、
自己の中にある
女性を発見するようになる。
自分の中にある女性、
つまり対極的な部分への気づきが
増せば増すほど、
あなたはより全体的に、
統一的になれる。
内なる男性と内なる女性が
完全に混ざり合い、
溶け合い、もはや分離することなく
一つの完全統一体となるとき、
あなたは個となる。
内側にある解放された女性と、
自分の中の内なる男性との
出会いにまかせない。
深い統一感と、
有機的な本質を知るために。
そうすれば、
意識に関しては、
あなたはもはや
男と女に分断されてはいない。
そのとき、
あなたは一つであり、
人間であり、
また全体でもある。
もはや葛藤はなく、
あるのは協調だけだ。
存在しうる
最高の統合体に達している。
それが起こるとき、
人は全体になる。
その人が男であろうが、
女であろうが、
それは関係ない。
あらゆるエネルギーには
極性がある。
生における唯一の問題は、
いかに二極間のバランスを取るか、
ということだ。
バランスは幸福へと導いてくれる。
あなたのエネルギーが50対50であるとき・・・
それらが出会い、溶け合い、
交響楽となり調和を奏でるとき・・・
たいへんな至福が可能だ。
全存在があなたの中に流れ込んでくる。
それは、あなたに準備が整い、
受容的になっているからだ。
世界中のあらゆる伝統が、
様々な方法でそれに働きかけて来た。
インドではそれを
「シヴァ、シャクティ」と呼び、
中国では「陰、陽」と呼ぶ。
それを「肯定、否定」、
「男、女」と呼ぶこともできよう。
ともかく呼び方はどうでもよいが、
ひとつだけ確かなことがある。
それは、
あらゆる物事が対極から成り立ち、
対極を通して存在している、
ということだ。
バランスが失われるとき、
地獄が生まれる。
バランスを回復するとき、
楽園もまた復活する。
- Osho
ありがとうございます。(^人^)