† 運命の出会いの舞台「岐阜城」† | みらくる☆彡

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官兵衛と信長、秀吉 
運命の出会いの舞台「岐阜城」


官兵衛、岐阜で信長と謁見する


天正年間に入り、
尾張・美濃を拠点とする新興勢力・織田信長と、
安芸の古豪・毛利家の対立は、
播磨国の諸将を二分した。

御着城の小寺家は、
織田方に加担することを決断。

そして、官兵衛は小寺家の代表として、
信長に面会するため岐阜へと赴いた。

そこで官兵衛は、
臣下の礼への見返りに、
信長から宝刀「圧切(へしきり)」を賜る。

そしてこれ以後、
信長の重臣・羽柴秀吉とタッグを組んで、
対毛利の最前線で戦うこととなる。

天正3年(1575)、
官兵衛30歳のときである。


官兵衛と
信長・秀吉の運命的な出会いの舞台
「岐阜城」は、
信長が居城とした山城である。

標高329mの金華山一帯を縄張とし、
山頂に天守を構えていた。

現在は山頂に、
岐阜市街地を見下ろす3層4階建の模擬天守が建てられている。

岐阜公園として整備された金華山の麓は、
市民の憩いの場となっている。

織田信長の居館跡、
信長関連の史料を展示する岐阜市歴史博物館など名所が多い。



信長居館跡

岐阜公園内「織田信長発掘調査案内所 信長楽市」では発掘調査の出土品も見学できる


「国盗り」「下剋上」の舞台となった城


この城の歴史は鎌倉時代初期にまでさかのぼるが、
かつては「稲葉山城」と呼ばれた。

戦国初期には
美濃の守護代・斎藤家の城となっている。

その後、
斎藤家の家臣・長井家が乗っ取り、
長井家の家臣だった長井新九郎が乗っ取る。

城主となった新九郎は、
後に斎藤道三と名を改める。

「一国一城の主」となった道三だが、
間もなく長男の斎藤(一色)義龍が起こした謀叛によって戦死する。

道三は、
討ち死にする前日に遺言状をしたためている。

そこには、

美濃は娘婿の信長にゆずる

という文言が記されていた。

父・道三から城を奪った義龍はその5年後に急死、
義龍の嫡男・龍興が家督を継ぐ。

このとき、
虎視眈眈と美濃制圧を狙っていた尾張の信長が、
城攻めを開始する。


弱体化したとはいえ、
それでも稲葉山城は天下の堅城。

攻略はなかなか進まなかった。

そんな中、
斎藤氏の家臣であった竹中重治(半兵衛)が造反、
城を奪取するという事件が起きている。

半兵衛は天文13年(1544)、
大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子として生まれた。

斎藤家を裏切った半兵衛だが、
信長に城を明け渡すことも拒否し、
あっさりと美濃を後にした。

この半兵衛が、
後に秀吉の軍師となったことは周知の通り。

 
永禄10年(1567)、
信長はついに斎藤家を美濃から追放、
岳父・道三の遺言の通り、
晴れて美濃一国を集中に治めたのだった。

これ以後、信長は城を「岐阜城」、
稲葉山を「金華山」と名を改め、
新たな拠点とする。

山麓に居館を建て、
山上には天守を築いた。

また、岐阜城下町には、
革新的な自由経済「楽市楽座」を導入した。


このように、
岐阜城は幾度も争奪戦が繰り広げられた要衝であった。

「国盗り」「下剋上」の舞台となった城は、
戦国時代の争乱を今に伝える。


歴史人より




無理、無駄はぶき真実照らさん

祭りて時ぞ 夢中になれ