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日本のルーツ?・苗族

(「古代日本のルーツ、長江文明の謎」安田喜憲より)


  6.300年前、中国の長江流域に巨大文明が誕生。

メソポタミァ文明やエジプト文明より古く、
黄河文明よりも千年以上も早くから開けた。

長江の水を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、
自然と共生する「再生と循環の文明であった。


  4.200年前に起こった気候の寒冷化によって、
漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。

彼らは畑作牧畜を生業とする自然を切り拓く
「力と闘争の文明」の民であった。

彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。

これが今日の苗(ミャオ)族などの少数民族である。


  長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、
他の四大文明が畑作農耕をしていたことに、大きな違いがある。

小麦や大麦は、極端に言えば、
秋口に畑に種を蒔いておけば、
あまり手間もかけずに育っていく。

そのような単純労働は奴隷に任され、
支配者は都市に住んで、
農奴を管理するという階級分化が進みやすい。

都市は交易と消費の中心となり、富と武力を貯える役割を持つ。

  それに対して稲作は複雑で手間がかかる。

苗代を作ってイネを育て、水田に植え替える。

秋に実るまでに水田の水を管理し、
田の草も取らねばならない。

高度な技術と熟練を要するので、
奴隷に任せてはおけず、
共同体の中での助け合いを必要とする。

都市は水をコントロールする灌漑センターとして成立し、
更に豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。

祭祀を司るリーダー・祭司おったであろうが、
身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかった。



   太陽と鳥の信仰


  7.600年前の淅江省河姆渡遺跡からは、
二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を
抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。

  種籾を蒔き、苗床を作り、
田植えを行い、刈り取りをする、
という季節の移ろいに合わせて、
複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、
太陽の運行は時を図る基準であった。

同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。

太陽信仰が生まれたのも当然であろう。


  その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。

太陽は朝に生まれて、夕方に没し、
翌朝に再び蘇る。

太陽の永遠の再生と循環を手助けするもの
こそなのである。


  太陽信仰と鳥信仰は日本の神話でも見られる。

皇室の祖神である天照大神は日の神、
即ち太陽神そのものであった。

神武天皇東征のとき、
熊野から大和に入る路を先導したのが天から下された
「八咫やたがらす)という大鳥であった。 


景行天皇の皇子で九州の熊襲を征し、
東国の蝦夷を鎮圧した日本武尊は、
帰途、死後、
八壽白智鳥(やひろしろちどり・大きな白鳥)と化して天の彼方へ飛び去ったという。

更に伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、
「神鶏」日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


つづく。。。? (笑)