†聖護院† | みらくる☆彡

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聖護院



聖護院

所在地 京都府京都市左京区聖護院中町15
位置 北緯35度1分9秒
東経135度46分49秒

山号 なし
宗派 本山修験宗
寺格 総本山
本尊 不動明王

創建年 寛治4年(1090年)
開基 増誉
正式名 聖護院門跡
札所等 近畿三十六不動尊第十八番
役行者霊蹟札所

文化財 書院、絹本著色熊野曼荼羅図ほか(重要文化財)
聖護院旧仮皇居(史跡)


聖護院(しょうごいん)は
京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山の寺院。

同宗派設立以前は天台寺門宗に属した。

山号はなし。
開基(創立者)は増誉、
本尊は不動明王である。


日本の修験道における本山派の中心寺である。


概要


静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、
代々法親王[1]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[2]。

明治まで37代を数える門主のうち、
25代は皇室より、
12代は摂家より門跡となった[2]。

江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、
皇室と深い関わりを持ち、
現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。


11世紀の末に現在の場所に建てられた後、
4度の火災により市内を点々とし、
1676年(延宝4年)に、
現在の場所に戻った[2]。

明治までは、
当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた
「聖護院の森」の中に寺があったため
森御殿」とも呼ばれ、
現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[2]。

なお、聖護院の森は、
紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、
現在も「錦林」の語が地名に使われている[2]。


聖護院の南西には、
平安時代に「聖護院の森」の鎮守として熊野神社が祀られ、
京の熊野三山
(残り2つは若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、
応仁の乱で焼失した後、
1666年に道寛法親王によって再興された[2]。


地名

左京区南部の地名である「聖護院」は
本寺院に由来し、
その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。

和菓子の聖護院八ツ橋や、
京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[3]。


歴史


当寺の開基は園城寺の僧・増誉である。

増誉は師である円珍の後を継いで、
師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど、
修験僧として名をはせ、
1090年(寛治4年)、
白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた[2]。

この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられ、
役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を下賜された[2]。

これが聖護院の創建である。

寺名は「聖体護持」の意である[2]。


増誉は、熊野三山検校として、
また、本山派修験道の管領として、
全国の修験者を統括した[2]。

増誉の後も、
聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。

この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、
「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」と言われ、
愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した[2]。


1236年(嘉禎2年)、
熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したため、
熊野との結びつきが一層深まった。

また、同親王以後、
代々法親王が入寺したため、
門跡寺院として天台宗内で重視された。

室町時代中期、聖護院は、
園城寺から引き継いで、
熊野三山検校の地位を務めるようになった[2]。

熊野の修験組織を束ねて、
最盛期には、
全国に2万余の末寺を持ったという[2]。


その後、
応仁の乱の際など数度の火災で焼失し、
洛北の岩倉(現・京都市左京区岩倉)に移転した後も火災にあい、
洛中などを転々とした後、
烏丸今出川に建てた伽藍も延宝の大火で延焼してしまうが、
1676年(延宝4年)に現在地に再興され、
現在みられる寺院の姿となった[2]。


1734年11月16日、
聖護院の森にて、
呉服商の井筒屋伝兵衛と、
先斗町近江屋の遊女お俊との心中事件が起きた[2]。

近松半二は、この事件をまとめ、
「近頃河原達引」(「お俊・伝兵衛」)という浄瑠璃作品を発表し、
現在も上演されている[2]。


1788年(天明8年)と1854年(安政元年)の内裏炎上に際し、
光格天皇と孝明天皇が一時期仮宮として使用した。

当時の聖護院門跡は
光格天皇と同母弟の盈仁法親王であり、
当院と皇室は深い関係であった。


1868年(明治元年)の神仏分離令に続き、
1872年(明治5年)には修験道廃止令が発布されたため、
天台寺門宗に所属することになったが、
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、
修験宗を設立[4]して天台寺門宗から独立した。


2000年(平成12年)、
役行者1300年御遠忌を記念し、
数年かけて行われていた寺院の修理が終わった[2]。


歴代門跡


圓珍(814-891)
増命(843-927)
勢祐
智静(945-1008)(志紀氏)
最圓(988-1050)(藤原頼忠子(一説に藤原公任子))
静覚(1024-1083)(藤原教通四男)
増誉(1032-1116)(藤原経輔子)
増智(1078-1135)(藤原師実子)
覚忠(1118-1177)(藤原忠通子)
静恵法親王(1164-1203)(後白河天皇皇子)
圓忠(1180-1234)(近衛基通子)
静忠(1190-1263)(近衛基通子)
尊圓法親王(1207-1231)(後鳥羽天皇皇子)
深忠(1233-1268)(九条道家子)
覚恵法親王(1217-?)(順徳天皇皇子)
覚助法親王(1250-1336)(後嵯峨天皇第十皇子)
忠助法親王(?-1290)(後嵯峨天皇皇子)
順助法親王(1279-1322)(亀山天皇皇子)
尊珍法親王(1306/7-?)(亀山天皇皇子)
恵助法親王(1289-1328)(伏見天皇皇子)
覚誉法親王(1320-1382)(花園天皇皇子)
仁誉法親王(1340-?)(恒明親王王子)
聖助法親王(?-?)(後光厳天皇皇子)
静尊法親王(?-?)(後醍醐天皇第四皇子)
覚増法親王(1363-1390)(後光厳天皇皇子)
道意(1354/58-1429)(二条良基子)
満意(1376-1465)(二条良基子)
道興(1430-1527)(近衛房嗣子)
道應(1467-1510)(伏見宮貞常親王王子)
道増(1510-1551)(近衛尚通子)
道澄(1544-1608)(近衛稙家子)
義観(足利義教子)
興意法親王(1576-1620)(陽光院皇子)
道晃法親王(1612-1679)(後陽成天皇第十一皇子)
道寛法親王(1647-1676)(後水尾天皇第十三皇子)
道祐入道親王(1670-1690)(後西天皇第七皇子)
道尊法親王(1675-1705)(後西天皇第九皇子)
道承入道親王(1695-1714)(伏見宮邦永親王第一王子)
忠誉入道親王(1722-1788)(中御門天皇第三皇子)
増賞入道親王(1734-1770)(有栖川宮職仁親王王子)
盈仁法親王(1772-1830)(閑院宮典仁親王第七王子・光格天皇同母弟)
萬寿宮(1820-1831)(伏見宮貞敬親王王子)
雄仁法親王(1821-1868)(伏見宮邦家親王王子)
敬心
石坐密道
山科祐玉
雄真
富小路寛巽
敬明
直林敬圓
樋上顕定
柳田暹暻
-
-
-
岩本光徹
加來徳泉
宮城泰年


伽藍


書院 - 江戸時代初期、御所より移築した建物、国の重要文化財
宸殿 - 江戸時代中期
本堂 - 江戸時代中期


文化財


重要文化財
書院
絹本著色熊野曼荼羅図
木造智証大師(円珍)坐像
木造不動明王立像
木造不動明王立像
光格天皇宸翰 神変大菩薩号勅書
後陽成院宸翰消息
円珍入唐求法(にっとうぐほう)目録1巻、如意輪心中心真言観1通、智証大師像造立願文(ぞうりゅうがんもん)1通(以上、智証大師像の像内納入品)
山城国富家殿(ふけどの)山絵図


史跡

聖護院旧仮皇居


札所


近畿三十六不動尊第十八番
役行者霊蹟札所


行事


1月 - 茶道速水流による初釜
8月 - 熊野への大峰入りのために山伏が当寺に集結し、熊野へ向かう。


読経


本来、修験道では、
森羅万象は全て法身の顕れと考えるため、
聖護院では、
森羅万象を全て経典と考えるとしている[2]。

実際には、
法華経や不動経や般若経、
錫杖経などを主に読むほか、
天台宗の影響により、
同宗の修行である止観行
(法華懺法や例時作法など)を行うという[2]。


* Wikipediaより転載 *