『 香久山妙法寺 』 | みらくる☆彡

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名称 妙法寺
みょうほうじ

[山号:香久山 こうきゅうざん] 
[通称:毘沙門天 びしゃもんてん]

所在 静岡県富士市今井2-7-1(毘沙門町620)

宗派 日蓮宗 本尊 一塔両尊

創建 伝:寛永4年(1627)
開基 渡部彦左衛門
開山 日深上人 本寺 身延久遠寺

寺紋 日蓮宗橘、毘沙門輪宝 鎮守 毘沙門堂

備考 旧暦正月7~9日:大祭(だるま市)

交通 JR吉原駅、
岳南鉄道吉原駅より徒歩15分 駐車場有





東海道筋の日蓮宗寺院。 
俗に「毘沙門さん」。

正しくは妙法寺といい、 
「毘沙門さん」は本来、鎮守堂を指すが、
みな寺ごと「毘沙門さん」と呼ぶ。

旧暦正月7~9日の大祭は
「3大だるま市」のひとつとして知られ、
露店と参詣者でごった返す境内は、
押すな押すなの人の波。

大祭は日本三大だるま市の1つ


妙法寺の開創は江戸初期の寛永4年(1627)。

身延山25世日深が田島村に建立し、
「田島山妙法寺」と号した。

下って延宝8年(1680)の台風高潮で中吉原宿とともに流されたが、
元禄10年(1697)今井村の渡部彦左衛門が、
身延山31世日脱らの助力を得て妙祥寺(現・富士市中央町)跡地に移転再建。

30年後、
境内地8町余りが除地となった。

一方毘沙門堂は、
平安末期に富士修験の道場として開かれた説があるものの、詳らかではない。

毘沙門天像の由来も曖昧模糊。

江戸後期の『駿河記』は、
武蔵国の武家が所有していた霊験あらたかな像を、
日脱の弟子日乗が護法神に迎えた、
と所載している。

そのほか、鎌倉期に安置された、
海岸に漂着した像を漁師が祀った、
などなど。

徳川家、諸大名が庇護

寺伝によれば江戸期、
お万の方や紀州徳川頼宣が深く信仰したことから、徳川家の庇護を受けた。

元禄年間(1688~1704)、
江戸城本丸から将軍の武運長久を祈念して御前立毘沙門天像が奉納され、
正徳2年(1712)には7代将軍家継の病平癒祈願のため、
堀山城守、早川佐渡守、本間豊前守らが御奉書を下附。

また、
参勤交代で街道を通った諸大名の庇護を受け、
寺勢はおおいに隆盛したという。

明治以降は大祭がひろく知られるようになり、
東海道本線開通の恩恵も受けて、
多くの参詣者で賑わうようになった。

明治42年に県知事へ提出した書類に
「正月三月両縁日ハ静岡沼津間ニ臨時列車ヲ発スルノ盛況ニシテ…」とみえ、
大正期『元吉原村誌』『静岡縣富士郡誌』にも同様の記述がみえる。

>> 毘沙門天 大祭



にぎわう大祭中の境内


アジア各国の様式を取り入れた諸堂
毘沙門天(=インド伝来の神)を祀っているからだろうか。

境内の諸施設は神仏、
さらにはアジア各国の様式が渾然一体となり、
まことに混沌とした景色が広がっている。

まず、旧東海道に面する階段を上がると、
石鳥居が参詣者をむかえる。

扁額には「南無妙法蓮華経」。

日蓮宗の寺なのだから題目は自然だが、
鳥居との組み合わせはとてもめずらしい。



東海道に面する階段を上ると石鳥居
参道をすすむと再び階段。

左右に毘沙門天ゆかりの虎が座し、
上がりきったところに身祓い用の毘沙門天像がたつ。

続いて極彩色の中国風香炉が置かれ、
奥に和式の毘沙門堂と客殿。

毘沙門堂は木造入母屋造りで、
向拝の七福神透かし彫りがすばらしい。

毘沙門堂の右手はインド・パキスタン式の本堂・道場がつらなり、
左手にはネパール式目玉塔まである。

目玉塔地下は延長150mの洞窟となっており、
七福神や中国陶器画などが飾られている。



階段左右に毘沙門天ゆかりの虎像



毘沙門堂、竜神洞、客殿、練成道場



境内風景


富士おさんぽ見聞録より