†再掲載† ★†乙若†☆ | みらくる☆彡

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『 2014/10/26 10:44 』更新


源平墨俣川古戦場跡(義円)





源平墨俣川古戦場跡は、
秀吉の墨俣一夜城の2Kほど南にあります。

現在、古戦場跡は義円公園として整備され、
公園内には墨俣合戦で討死した義円ゆかりの
地蔵と供養塔が祀られ、
その西の田畑の中には義円の墓がひっそりと佇んでいます。

義円は源義朝と常盤との間に生まれた
今若・乙若・牛若の乙若にあたり、
平治の乱後、この三人の子供は全員、
常盤と平清盛との約束で、
僧籍に入ることになります。

乙若は後
白河院の皇子園城寺の円恵法親王のもとに坊官(帯刀妻帯が許される)となり、
卿の公・円成と名乗り、
後、義円と改めます。


源平墨俣川古戦場


平清盛が亡くなって
一ヵ月後の養和元年(1181)3月、
源行家は源頼朝から派遣された義円とともに六千余騎を率いて
墨俣川の東岸に、
西岸には平重衡(平家物語では平知盛)を総大将とする
三万騎の平氏が陣を構えていた。

義円は行家に先陣されては兄頼朝に合わす顔がないと考え、
明日の矢合せをまたずに無謀にも小勢で夜襲をかけたが失敗し
平盛綱に討ち取られた。

二十五歳であったという。

これに遅れまいと行家も手勢二千余騎を率いて川を渡り平家軍に攻め入ったが、
たちまち大軍に包囲され命からがら
三河国(愛知県)矢作川辺まで落ち延びた。

この合戦で源氏軍は690余人の死者を出して惨敗した。


両軍の兵力や平家方の大将については
『平家物語』『吾妻鏡』その他の
史料によって異なるが軍勢において平家方が優っていたことは確かである。


平知盛はこの合戦に出ていないが
前年12月からこの年の2月まで
近江・美濃・尾張で戦い病により京へ戻った。

平家物語はこのことと混同している。

墨俣川合戦で大勝利した平家は
三河・遠江(静岡県)への進撃をせず兵を引いた。

そのことについて『平家物語』は次のように語っている。


もし平家がそのまま追撃を続けていたら、
三河・遠江方面の武士達は皆平家方についたであろうに
総大将平知盛が病気になったことから
平家軍は都に帰ってしまった。

今度も第一陣を破っただけで残党を攻めきれず、
さしたる戦果もないにひとしい。

平家では一昨年、重盛が亡くなり、
今年もまた入道相国が亡くなり、
運命の衰えていく兆しがはっきり見えてきたので、
長年にわたって平家の恩を受けてきた人々以外は、
平家に従いつくものはいなかった。

一方、
東国では草も木もみな源氏になびいた。


天正14年(1586)大洪水まで
長良川木曽川墨俣まで合流し、
当時周辺は大小の河川が集まり
「洲の俣」の形状をもつ大湿地帯であった。


往古墨俣から南の長良川は墨俣川ともよばれ、
墨俣川合戦はこの湿地帯を舞台に繰り広げられた。

湿地帯を背後にして戦った源氏軍は
退却に手間取り被害を大きくした。


墨俣は近世に
木曽川が現流路に付替えられるまで、
美濃国と尾張国の国境にあり、
古代から近世に至るまで水陸両面の交通の要衝であった。

大海人皇子にかかわる伝承や
源平・南北朝期の合戦、
熊谷直実ゆかりの満福寺熊谷堂、
秀吉の墨俣一夜城
中世の鎌倉街道や
江戸時代の美濃路の宿場町であり、
古代からの歴史が重なっている。


満福寺熊谷堂 


満福寺は寛和年間(985)天台宗の伽藍として
創建されたのが始まりとされ、
熊谷直実の猶子・祐照法師が親鸞聖人に帰依し、
嘉禎元年(1235)、
葉栗郡門間の庄足近に、
その後寺地は現在地に移された。

境内にある熊谷堂では、
熊谷蓮生房の木像をはじめ
太閤秀吉の書など多くの寺宝が拝観できる。


鎌倉街道


古くから東海道と東山道を結ぶ官道が、
墨俣南部の上宿・二ツ木を通っていた。

鎌倉時代になると
鎌倉と京都を結ぶ道として整備され、
東西交通の重要な要衝であった。

街道はさまざまな文化の行き交う道として賑わい、
西行法師の歌
阿仏尼の十六夜日記など
多くの和歌や紀行文に墨俣が記されている。


不破神社と大海人の皇子


『宇治拾遺物語』によると
「壬申の乱に際し大友皇子軍に追われた大海人皇子は
墨俣の渡りにおいてある女の気転によって湯船に隠れ、難を逃れた。」という。

大海人皇子を救った女は
不破神社にお祀りしてある
不破明神の化身であるといわれている。



http://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/046576d4b8f87b17ce75b7f3782bbd8fより転載